神仏の悲しみと、そこからくる愛について。
神仏は悲しむか?
神仏は悲しむと思う。というよりもむしろ、彼らの悲しみこそが、彼らの愛の根源であると思う。
キリスト教の神
そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
これは、十字架にかけられて死ぬ直前のイエスの発言だ。イエスは夜中に一人で起きて祈りながら、「やっぱり十字架になんてかけられたくないよう!」という感じに、悲しみ葛藤する。そして徹夜のうえ「でも私がやらなきゃいけないならあなたのみ心のとおりにこの苦難を受けます」という境地に達する。
イエスが神かどうかはもうそれはそれは難しいので、この例は「仮にイエスが神であるとした場合」に挙げている悲しみの例としてご理解いただきたい。
また、キリスト教の代表的な祈りに「主よ、憐れみたまえ」と繰り返すものがあり、これはカトリックのミサの中では非常に重要な位置を占めている。
仏教の仏
仏教の根本概念に「慈悲」というものがある。
慈悲というのは、被造物の抱えている苦しみを憐れみ、苦しみを除いて楽を与えようとする心の働きのことだ。
慈はサンスクリット語でmaitrī、悲はサンスクリット語でkarunā。maitrīの原義は(博愛的な)友情や友人のこと、karunāは「苦しみを除きたいという悲願」のようなものを指すようだ。
仏教では、「仏はすべての存在の苦しみを除きたいと願い、永遠の時の中を修行しつづける」という考えがある。
悲しみ、憐れみ、同情、慈悲、愛の間の関係性
憐れみについて辞書で調べると、「同情、慈悲」とある。慈悲について調べると、「憐れむ心」とある。
同情や憐れみは英語でcompassion(原義:共に苦しみを背負う)。
compassionは、聖書で使われているギリシャ語ではスプラングゾニマイ(原義:はらわたを突き動かされる)。
古語では「いとしい」と「かなしい」は同じ言葉だった。「愛し(かなし)」と書く。
要するにこういうことだろう。
どちらかというと苦しく激しい身体反応を伴った感情が悲しみや苦しみである
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悲しみ苦しみを共に背負おうとする心のありかたが憐れみ、同情、慈悲である
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憐れみ、同情、慈悲を別の言葉で表したものが愛である
であるならば、神仏はもっとも悲しむ存在である、ということが言えるかもしれない。
※キリスト教的なcompassionまわりの解説の詳細はこちらの過去記事に書いている。