自らもサイコパス傾向を持つ神経科学者ジェームズ・ファロン著の「サイコパス・インサイド」を読んだ。ここから聖書を通して考えた、共感(empathy)・同感(sympathy)・同情(compassion)の違いについて書いてみたい。
Contents
サイコパス・インサイドとは
サイコパス・インサイドとは、サイコパスの脳の研究をしていた神経科学者がたまたま自分の脳を調べたところ、なんと自分がサイコパスの特徴を持つ脳を持っていたことに気づいてしまった… というところから始まる壮大な自分史・サイコパス研究史。
私は自分の父方の祖母と父がおそらくサイコパス、またはサイコパス傾向があるので、激しく興味をそそられて前のめりで買って読んだ。
面白かった点はいくつかある。そのうちの4点が以下だ。
- サイコパスがはっきり発現して大量殺人者になったりするには、遺伝子や脳に先天的なサイコパス傾向を抱えていることに加え、幼少時に一定以上に重篤な虐待を受けている必要がある
→逆に言えば、著者のように「サイコパス傾向があってときどき冷酷な面や人格的アンバランスさは見せるが犯罪者にはならない」タイプは多数存在する(おそらく少なくとも私の父はこのタイプ) - 紛争地域などの暴力が慢性化している地域ではサイコパスに関する遺伝子が集積・増大している可能性がある。というのは、こういった地域の女性たちは守られようとしてより「悪い」男たちと結婚するため
- サイコパス傾向のある人でも神経症になったりするという事実。著者は若い頃に異常に几帳面なところがあり、「今年のカトリック少年」として表彰されたり、パニック障害を発症したりしたことがあった
- 人間の脳は25歳前後に成熟するので、発症する精神疾患や、起こるいろいろな症状は良い意味でも悪い意味でもこの前後に変化する可能性が高い。筆者のこの前後の時期のキャラクターの変化などの経歴は非常に面白かった
サイコパス傾向者は他者への共感(empathy)を欠く
中でも最も面白かったのは、筆者の定義するところの「サイコパス脳」を持つ者(以降、サイコパス傾向者と記す)の、他者との関わり方と脳機能についての記述部分だった。
サイコパス傾向者の脳では「腹側前頭前システム」を司る「眼窩皮質」という部分の機能が低下している。これによって何が起こるかというと、他者の苦痛との結びつきに障害が生じるのだそうだ。つまり、サイコパス傾向者は、他者への共感(empathy)※を欠く。
※共感(empathy)の語義と語源についてはのちに詳しく解説する。
ちなみに、自閉症者では「内側前頭前システム」を司る部分の機能が低下しており、このために「こころの理論」(自分とは違った他人の思想・信念への洞察)を欠いているとのこと。
サイコパス傾向者と自閉症者・自閉系の発達障害者ではともに他者との関わりにおいて「冷たい」「興味がない」印象を与えることがある。しかし個人的には、うまく言語化できないけれど「何かが違う」と感じていた。ここの記述を読んで、言語化できていなかった違和感を説明してもらったようで非常にすっきりした。
共感(empathy)を欠くサイコパス傾向者も、同感(sympathy)は可能
ここで私にとって大きな希望となったのは、「ただし、共感(empathy)を欠いても、同感(sympathy)への努力を行なうことは可能」という旨の記述があったことだ。
この部分を簡単に噛み砕いて言えば、他人の苦しみを追体験することに障害を抱えるサイコパス傾向者にも、いわゆる「優しく温かく親切な人間」であろうと努力することも、またこれを実現することもできうる、ということなのだ。
サイコパス脳を抱えた人間だからといって、血も涙もない殺人鬼というわけではない。どんなときも狡賢く立ち回ることのできる無敵のサイボーグのような存在なわけではないのだ。
私は、いまだに大きな葛藤を抱えながら密かに思慕し続けている実父のことを思い描いていた。詳細については続編に書きたい。
共感(empathy)と同感(sympathy)の違い
empathy、sympathyの両方に入っている -pathy の語源はギリシャ語の pathein(苦しみ)だそうだ。
そして empathy の em は in とほぼ同義、または「~させる」。
sympathy の sym は、「シンクロ」で連想されるように、「平行して」がコアイメージだ。ぴったり隣り合う感じ。
これらをヘタクソな絵にしてみるとこうだ。
empathyは、相手の苦しみを我がごとのように入り込んで感じること。相手の苦しみを実感を持って追体験している。
sympathyは、相手の苦しみを想像して寄り添うこと。どちらかというとempathyよりも精神的に落ち着いていて余裕がある感じがする。
絵にうまくそのあたりのニュアンスが出ていない気がするが、そのあたりは私の画力の問題と思っていただきたい。empathyのほうにもうちょっと激しい表情をつければよかった…
聖書の「よきサマリア人のたとえ」に出てくる「憐れに思って(moved with compassion)」
以下は聖書の中でイエスが、ある律法学者から「隣人を愛せとはどういう意味か」と問われて自ら語ったとされる内容。イエスの愛と憐れみの姿が描き出されていると考えられている。
ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
ルカによる福音書 10章30-34節
比較的多くの版で「憐れに思って」の部分に使われているのは、moved(touched)with compassion という表現だ。compassionには日本語で非常に多くの訳語があるが、「同情」「憐れみ」などと訳されることが多い。
同感(sympathy)と同情(compassion)は語源的にほぼ同義
compassionのcomは「共に」。passionは日本では「情熱」のほうが有名だが、もともとはキリストの十字架上の苦しみのことを指す。ラテン語のpassionem(苦しみ)やpati(苦しむ)が語源にあたる。
時代を経るにつれ語義が広がり、ギリシャ語のpathos(愛情、感情)の意味が加わり、激しい感情→情熱 という意味も加わっていった。
つまり、語源的にはcompassionは「共に苦しむ」なわけだ。これは、先のsympathy「隣り合って苦しむ」と語源的にほぼ同じと言ってよいだろう。empathy「相手の苦しみを我がごとのように苦しむ」だけが仲間外れの感がある。
【脱線】「よきサマリア人のたとえ」の「憐れに思って」部分のギリシャ語版から推測する、最も適した英訳・日本語訳
聖書はヘブル語→ギリシャ語→ラテン語(→英語)→日本語 のような感じで何段階もの翻訳を経て日本語になっている。この問題に着目して、ギリシャ語などからなるべく直接日本語に訳そうとしているのが本田哲郎というカトリック神父だ。私は大好きなのだが、あまりにラディカルなので内外に賛否両論ある。
この「憐れに思って」の部分は、ギリシャ語だと「スプランクニゾマイ」。「スプランクノン(内臓、はらわた、腸)」という言葉からきていて、直訳すると「はらわたを動かされる」ということのようだ。「スプランクノン」はもともとはヘブル語の「ラハミム(胎内、子宮、憐れみ)」の訳語であった様子。
※原語であるヘブル語の言語感覚として、子宮のような深部の内臓の感覚と「憐れみ」が結びついているというのはとても私の心に響くものがある。
本田神父がこの部分をどう訳したかというと、「はらわたをつき動かされた」だった。
素晴らしい訳だと思う。
現在最も流布している日本語訳の「憐れに思って」など全くもってヌルい。キリストの愛や憐れみは、そのような余裕のある、距離や高さのあるところから施しをするような態度ではなかったと思われる。本田神父が繰り返し訴えているのは、「多重翻訳された聖書を参照し続けるうちに、日本人の間に間違ったキリスト像やその愛・憐れみが伝わってしまったのではないか」ということだ。
イエスの本来の姿は、もっと地を這うような、血を吐くような、弱くてみっともない、泥まみれの、それでも人に手を差し伸べざるをえないような、そんな一個の人間の姿だったのではないかと、本田神父の著作を読んでいて私は感じた。
私が思うに、イエスはエンパス(他人の心の痛みを我がごとのように感じ取ってしまう敏感な人)であった。ちなみに私もエンパスだ。ときに「こころの理論」を欠く発達障害者であるにも関わらず、エンパスなのである。
人の痛みが響いてきて響いてきて毎日苦しい。毎日のように、人の苦しみ悲しみ痛みに「はらわたをつき動かされた」ようになって、それだけでぐったり疲れてしまったり、ときには体調を崩して寝込んだりしてしまうことがある。このことについてはまた後日書きたい。
現在英語版で多く流布している、moved with compassion は、「憐れに思って」よりもよっぽど優れていると思う。なぜなら「共に苦しむ」という語義が含まれているから。しかしこれでもまだヌルい。入り込みが足りない。
私が英訳するとしたら、moved with empathy あたりにするだろうか。コロケーションに詳しくないので自然な英語かはわからないが(今のところ英日翻訳はやっていても日英翻訳はやっていない)。
以上、長文になったが勝手な論考を終える。