私たちは悲しみによって結ばれ、愛と喪失と悲しみの循環の中を生かされている。
Contents
悲しみによって結ばれる
どんな人の人生にも喪失があるように、私の人生にも、いろいろと大きな喪失がある。
それらの喪失に私は心底悲しみ、ときには身動きをとることもかなわなかった。
30を過ぎた頃、そんな淵からオットに助け出された。
私たちは大恋愛をした。しかし、その強力な起爆剤のひとつになったのは互いの悲しみへの強い同情であったということも、私は体感で理解している。つまり、もしも私たちが悲しみを抱えていなかったら、こうして結ばれることもなかったかもしれないのだ。
ならば、私は私の中の悲しみを投げ捨ててしまうわけにはいかない。それを抱えつづけていることがどれだけ面倒で重たくてもだ。
人と人はこの世界の中で、最初はバラバラに存在している。しかし人はときに、互いへの劇的な(多くの場合、いささか独りよがりな)同情によって自我境界の一部を溶解させ、そのことによって出会う。その後運がよければ、境界の溶けてくっついたところから、愛が起きてくる。
愛はもちろん神秘だが、その誘い水となりうる同情、その水源となる悲しみは、ある意味でもっと神秘だ。
愛と喪失と悲しみの循環
悲しみは愛のトリガーであり、また、愛は悲しみのトリガーである(愛さなければおそらく喪失に悲しむこともないからだ)、悲しみがなければ愛はない、愛がなければ悲しみもない、ということを考えていて、愛と喪失と悲しみで形成されたエコシステムのようなイメージが沸いてきた。
喪失は突然の残酷な雷雨である。
それが私たちの柔らかい精神の地表を穿つ。これが心の傷である。
雨水は傷を伝って意識に染み込んでいき、地下水脈となる。これが悲しみである。
溢れた悲しみはひょんなところから湧き出し、涙の川となって人の目や手足に触れ、誰かを同じように潤ませる。これが同情である。
涙は同情の地熱によって温められ、霧となって立ち昇る。これが愛である。
愛の結果として雷雲が現れ、ある日突如として雷雨を降らせる。これが喪失である。
私たちの愛に寄り添う者として、大地に草花が芽吹き、生きとし生けるものが呼吸する。