抽象理解力と語彙の解離がASDの子どもを苦しめる?

この記事の所要時間: 610
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いつも不機嫌だった子ども時代

私は小さいころ、不機嫌なことが多かった。生きていて「なんとなくおかしいな、気に食わないな」と思うことがしょっちゅうあったのだが、その感覚をどうすることもできず、結果的にずっと不機嫌でいた。

いま思えばこれは、「自分の抽象理解力に、教育によって与えられている語彙が追いついていなかったから」だったのではないか、と思っている。

引っかかっていたことの例いくつか

「北極があまりに寒いので黒いパンツが白いパンツになってしまいました」の件

幼稚園の年長ぐらいの話だ。私は、お姉さんのいる同学年の園児や、小学生の女子児童が履いているブルマに憧れを持っていた。すごく大人に見えたのだ。それでサンタクロースに「くろいぱんつをください」とお願いした。しかしクリスマスにサンタが残していったのは「しろいぱんつ」であった。

手紙には、「ほっきょくがあまりにさむいので、くろいぱんつがしろいぱんつになってしまいました」とあった。私はたいそう憤慨して、「いくらほっきょくがさむいからって、くろいぱんつがしろいぱんつになるはずない。こどもだとおもってばかにして!」とぶつぶつ言った。

これは見ている側の大人からすればすごく可愛らしい話で、私も自分で可愛いなあと思うが、当時の自分にとってはこれは非常にショックなできごとであった。サンタは子どもには嘘をつかないものと信じていた心を裏切られたように感じたのだと、今では思い返せる。

当時の語彙では、「黒く染められた布がいま現在カチカチに凍っている結果白く見えるとしても、それは白く染め直されたわけではないから、融ければ黒に戻る」ということを到底説明できなかった。ただ、当時私にあった科学的な感覚として、「一時的に寒かったからといって黒いパンツが白いパンツに変化することはありえない」ということははっきりしていたのだった。

「お友達と楽しく遊びましょう」の件

これはこちらの記事を読んでほしい。

「お友達と楽しく遊びましょう」に引っかかりまくる子どもだった
https://decinormal.com/2015/08/22/classmate_not_friend/

クラスの男児が私を「自習時間中に落書きした」と咎めた件

ある自習時間、私は自由ノートを開いて詩かなにかを書いていた。

そこへ学級委員をしている男児が見回りにきて、見開きの別のページに描いてあった絵を見咎めた。それは何日か前の休み時間かなにかにボールペンを使って描いたものだった。

彼はその絵を指先でこすって、「ほら、こうしてインクが伸びた。いま自習時間中に描いたんだろう」と言う(姑かよ)。私はそのときの語彙では「違う、何日か前の休み時間に描いたんだ」と繰り返すしかできず、その場は私が嘘つき呼ばわりされて終わった。

長じてから私は、自分が言いたかったのは「比較実験不能性」ということだった、ということに思い当たった。

筆跡を指でこすって伸びたことによって私が本当にその直前に落書きしたのだということを証明したければ、同じボールペンで同じ紙に、数日前と直前とに同じ筆圧で同じ筆跡を作り、それを同じものを使って同じ力で同じ時間だけこする必要があった。それをせずに私が直線に当該の落書きをしたと断定するのは、ナンセンスかつアンフェアだ。

遠足で子羊たちと戯れたあとの昼食がジンギスカンだった件

遠足で農場へいき、私もクラスのほかの児童もみな、可愛いね可愛いねといって子羊と戯れた。そのあとの昼食が「ジンギスカン」というやつで、焼き肉だという話だった。なんの肉だろうと興味を持った私が担任になんの肉かと問うと、「羊の肉だ」という答えが返ってきた。

ジンギスカンは美味しかったが、私は自分が先ほどまで可愛い可愛いといって触れ合っていた動物の肉を焼いて食べているのだ、しかも最初気づくこともなく食べて美味しいと感じたのだ、と思うと、なんともいえない神妙な、罪悪感の混じったような重たい気持ちになり、食欲が失せてしまった。

誰か似た気持ちになる児童はいないかと、「ねえ、これ羊の肉なんだって、私たちがさっき触れ合ってたの羊だよね?」と何人かに問うてみたが、皆「うん、それで?」という感じの返答で、なにも引っかかるところのない様子だった。談笑しながらバクバクとジンギスカンを食べ続けているのだった。私は孤立感に戸惑い、さらに食欲がなくなってしまった。

当時、我々は小学校中学年か低学年だったと思う。もしかするとその年代の定型圏の子どもは、生きた羊と、屠られて捌かれ、下味をつけられ、ほかの食材と一緒に小さな肉片となって焼かれた羊の肉とを、つながったものとして実感をもって理解できる発達段階になかったのかもしれない。

ともかく、その場であの状況に引っかかっていた子どもは私ひとりだけだったようだった。それでいて、自分の感じた理不尽感のようなものを言語化できるわけでもなく、私はただ不機嫌に黙り込んでいた。

いま思えば、人間の都合のよさや醜さみたいなものを感じていたのだと思うが、当時の私には小学校低学年のレベルの語彙しか与えられていなかったために、自分で自分に説明ができなかったのだと思う。
(※いまは、そこで私が食べるのを拒否したところで羊さんたちにとってはなんの意味もないということは理解できる笑)

抽象理解力と語彙が釣り合った瞬間

中学3年ぐらいになって、徐々に国語で評論文を読むようになった。そこで評論的な表現や学術用語をいろいろ知るようになって、上記のようなことが突然全部言語化できるようになった。目の前にかかっていた靄がパーッと晴れわたって、振り返ると自分の歩いてきた道を初めてはっきりと見ることができた感じだった。

その後、自分が発達障害だと自覚するまでに10年以上かかったが、そうして自覚したあとになって、「ああ、あれが、自分の抽象理解力と語彙が釣り合った瞬間だったのだ」と思い当たった。

教育にはもっとオーダーメイド的になってほしい

日本の公教育の始まり自体が、「本人のためのオーダーメイド」と真っ向から対立するものだった(「粒の揃った日本国民を作る」のが目的だったらしい)ので、オーダーメイド的教育が普及していくには長い長い時間がかかるだろう。

しかし、小学校という合わないところに6年間押し込められている間に、私はいまだ回復しきれていないほどに深く、多数の傷を負ってしまった。

だから個人的には、教育には一刻も早くオーダーメイド化してほしいと思っている。 小学校という、あの忌まわしい窮屈な箱のなかに居ずに済んだら、私の人生はどれだけ身軽だったろう。そんなことをときどき夢想するのだ。

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