アドラー心理学に向いている人、向いてない人とは? ―アドラー心理学の危険性

この記事の所要時間: 1151

岸見一郎氏の「嫌われる勇気」で一躍有名となり、ドラマ化までされたアドラー心理学。持てはやされつつも批判も出ている。アドラー心理学が向いている人、向いていない人とはどんな人か、アドラー心理学の危険性はどんなもので、どんな批判があるのか、まとめてみた。

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「嫌われる勇気」で脚光を浴びたアドラー心理学

ここ数年、アドラー心理学が脚光を浴びている。アドラー心理学の研究者である岸見一郎氏の著作「嫌われる勇気」(2013年)が火付け役となり、関連書が山ほど出た。

あまりの人気に、当初予定していなかった二作目「幸せになる勇気」(2016年)も刊行された。

「嫌われる勇気」は2017年にフジテレビでドラマ化され、アドラー心理学はさらに注目を集めている。

嫌われる勇気

※このドラマに関し、アドラー心理学会はフジテレビに対し抗議文を発表している

ネットの一部では、アドラー心理学に感化された人が他人に対して「アドラー心理学では〜」と考えを押しつけたりマウントをとったりすることを「アドラー棒を振り回す」「アドラー棒で殴る」などといった表現で揶揄されることがある。

「トラウマは存在しない」(岸見一郎)

岸見氏の上記のアドラー二部作によれば、「アドラー心理学ではトラウマなど存在しない」。すべての人間が今すぐこの瞬間に幸せになれる、幸せになれないという人は幸せにならないという選択をしているだけ、と主張している。

岸見氏は、アドラー心理学では人生についての理論を「原因論」と「目的論」に分けており、人の人生上の行動はすべて目的論で説明できる、としている。トラウマに着目するのは原因論の最たるものであり、人生上のタスクから逃げつづけるためにトラウマに原因を見出しているにすぎない、ともしている。

アドラー心理学は人を選ぶ

岸見氏によるアドラー二部作を一読してみて、とても面白かったし参考にもなった。過去にトラウマを負った人の中にも、この二部作に非常に勇気づけられる人もいるだろう。幸運にも既に加害的・トラウマ的環境から離れ、人生や人に対する根本的な信頼をおおかた取り戻して、周囲の人とぼちぼち健康な関係を築きはじめたぐらいの段階の人には、かなり有益に働くと思う。私がその一例だ。

しかし私は同時に「これは非常に人を選ぶ理論だ」と思った。加害的な環境にあったり、PTSDの治療が十分には進んでおらず、当面の自分の命と心を守るだけでせいいっぱいとか、そこからようやく一歩抜け出したばかりとかいった人には向かないだろう。これが人々の間に伝わっていくうちに、この理論によって傷ついたり追い詰められたりする人が出ないとも限らない。

心理学というよりも哲学

作中でも触れられているが、アドラー心理学の実質は、心理学というよりも哲学だ。

わたしはアドラー心理学のことを、ギリシア哲学と同一線上にある思想であり、哲学であると考えています。これはアドラー自身についても同じです。彼は心理学者という以前に、ひとりの哲学者であり、その治験を臨床の現場に応用した哲学者である。これがわたしの認識です…(中略)…

わたしたちはどこからきたのか。わたしたちはどこにいるのか。そしてわたしたちはどう生きればいいのか。これらの問いから出発したのが、宗教であり、哲学であり、科学です。…(中略)…

常識を疑い、自問と自答をくり返し、どこまで続くかわからない竿の上を、ひたすら歩いている。するとときおり、暗闇の中から内なる声が聞こえてくる。「これ以上先に進んでもなにもない。ここが真理だ」と。…(中略)…

歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです

「幸せになる勇気」

つまり、アドラー心理学は基本的には哲学的な思索の産物なのだ。臨床の体感や多くの臨床データをもとに具体例に即して考えられた心理学ではない。

だから、アドラー心理学をほかの心理学と同じように捉えることは危険だ。アドラー心理学は哲学(≒常識を問い直してそこから自由になる)としては非常に優秀だと思うが、一般的な意味合いでいう心理学かというとそうではないのだ。

これが思索の産物である以上、その思索の枠からこぼれ落ちた、生身の実例がたくさんあるかもしれないことを忘れないようにしておかないと、足元を掬われると思う。そこがおそらく、そのラディカルさから注目を浴び、魔法の杖かのように扱われているアドラー心理学の、構造的な限界だと感じる。

トラウマは存在する

岸見氏は、彼のアドラー心理学カウンセリングでは、トラウマはトラウマとして聴くは聴くが、重要視はしないという。代わりになにに着目するかというと、「これからどうするか」だ。

この態度には確かに一理ある。この方法がぴったりと合う人だってきっとそれなりにたくさんいるだろうし、ある時期にこれがうまく働かなかった人でも、時期や状態が違えば非常に有益に働くこともあるだろう。

しかし素人考えながら私には、アドラー心理学カウンセリングが心理カウンセリングとして完成されているとは思えない。本当に深刻なトラウマを負っており、PTSDのさまざまな激しい身体症状や深刻な解離のある人のカウンセリングでも、本当に「そうなんですね。じゃあこれからどうしますか」で対応できるとはどうしても思えないのだ。

白川美也子氏という精神科医・臨床心理士がいる。彼女は日本における「複雑性PTSD」の治療の権威である。

白川氏は、自身のクリニックのブログで岸見氏紹介のアドラー心理学について以下のように記している。

人の苦悩に対してどういうアプローチをするのか、<原因論を取るのか、目的論を取るのか>ということと、<トラウマがあるのか、ないのか>という考えを混同しないでほしいと思います。

自分の治療的な立場が目的論<のみ>で(実際にそれでいけるということは、素晴らしいセラピストであるか、重篤なトラウマサバイバーの治療を行なったことがないか、あるいは壮絶な被害を体験した直後の方にも出会ったことがないか、のどれかであると思われます)あったとしても、もし、その治療法のみでうまくいっていたとしても、一般的に「トラウマという現象がない」というような安易な机上の論考をしないでほしいと切に願います。

こころとからだ・光の花クリニックFacebookページ

白川氏の上記の記事は全文引用したくなるほど切実で説得力のある内容なので、興味を持った人はぜひリンクをたどって全文読んでみてほしい。

向いていない人には危険すら及ぼす

白川氏は、岸見氏の「トラウマは存在しない」という解釈は、場合によってはトラウマ被害者への二次加害になりうると述べている。

「トラウマは存在しない」という言葉は、現にトラウマに苦しむ人にとって二次被害になることはありえますか。

→文脈によって十分あり得ると思います。

こころとからだ・光の花クリニックFacebookページ

岸見氏は「自分の紹介したアドラー心理学がさまざまな誤解を受けている」として以下の記事でインタビューに答えている。ひとつひとつの反論内容はとてもまともで、筋が通っているように思える。

誤解だらけのアドラー心理学

しかし、あくまで私が個人的に見た場合だが、岸見氏にはやはり全体的に、臨床の現場にいる生身の重篤な患者たちへの想像力が欠けているように感じられた。

哲学者である彼が、実際には哲学であると本人も認識している学問を、なぜか心理学と題してこの世に出したこと、臨床心理学者でもない彼が、いくらアドラーの真髄を強調するためとはいえ「トラウマは存在しない」という言葉を世の中に向けて放ったことには、疑問を感じる。そういった主張が日本の広い一般読者に届いたときに、めぐりめぐって重篤なトラウマや虐待・犯罪被害に苦しむ患者たちにどんな影響を与えうるかについて、岸見氏には考えが足りなかったのではないかと私は思う。

日本には残念ながら根性論がまかり通りやすい土壌があると私は感じている。「心理学」というものが独特の魔法の杖のようなものとして捉えられやすいこともしかりだ。そこへあのような根性論と誤解されやすいものを心理学として発信することの結果を予測できなかった、あるいは、予測はしても重視せず、あのように発信することを選んだことは、やはり彼がプロの臨床家ではないことを示していると思う。

岸見氏は、アドラー心理学を心理学ではなく哲学として日本に紹介すべきだったと、私は思う。

アドラー的だけど少しマイルドなおすすめ本

アドラーの思想に少し触れてみて興味を持ったし、苦痛や強い怒りは感じないが、あまりに極端に過ぎると感じる人は、周辺の、アドラー的エッセンスが少し入った著作を試してみてほしい。

ナチスの強制収容所から生還したV.E.フランクル。私は彼の語り口には温かさと説得力を感じた。もちろん、トラウマを負っている人はその回復段階によって合わないという場合もあると思うが、アドラーの主張よりもフランクルの主張のほうが受け入れやすいという人が多そうな気がする。

私は先にフランクルを読み、そのあとアドラーを読んで、フランクルとアドラーが一部似たようなことを言っていると感じた(岸見氏の著作にもフランクルの引用が頻繁に出てくる)。あとで調べたら、フランクルはアドラーに影響を受けていたようだ。

フランクルの主張の中で私がとても好きなのが、「人生とは瞬間瞬間の人生の問いに答えてゆく刹那の積み重ねである。私たちが人生の意味を問うのではない、人生が私たちを問うのだ。私たちは死の瞬間までそれに答える責務を負っている」といった感じのものだ。

アドラーとほぼ同時代のエーリッヒ・フロム。彼も、「孤独や他者との戦いから逃れて幸せになるには愛する以外に方法がない」「愛は勇気と信念の行為である」「愛は相手の問題ではなく能力や技術の問題である」ということを主張している。岸見氏の著作にもフロムの引用が出てくる。

日本の精神医療のなかで一種独特の立ち位置を持っている加藤諦三。彼も「神経症者は自分のことしか考えておらず自己中心的である」などときにラディカルな語り口調で、人によって合う合わないが大きそうな理論を持っている。アドラーをマイルドにして日本人にしたような感じと言ったらいいか。

最近亡くなったシスター渡辺和子氏。「置かれたところで咲きなさい」が大人気となった。そのシリーズの新しい一冊がこちら。私は実のところ、上記のフランクルや加藤諦三はこの本の中の引用から興味を持って読むに至った。最もマイルドで優しい語り口で、レイアウトも読みやすいので最も手を出しやすいと思う。

合わない心理学本なんかは放り投げてしまえ

人はひとりひとり違う存在だし、そのひとりだって、日々どんどん変化していく存在だ。だから、ままならない自分をなんとかしようとして読んでみた心理学本や自己啓発本がいまいちしっくりこなかったり、あるいは「お前のせいだ」と言われたようで苦しくなったりしたときは、単に「自分に合わなかったのだ」と思って放り投げてしまっていいはずだ。

残念ながら、人生に対する魔法の杖も、唯一解も存在しない。でもそれは逆に言えば、私たちが世の中のあらゆる「正解」から完全に自由であっていいということなのだ。

あなたには、たった今のあなた自身をちゃんと元気づけるものだけに囲まれて生きる権利がある。

Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2017 Yoshiko Soraki
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