私は、発達障害とおぼしき大事な人をひとり、孤立無援なまま亡くしている。その人のことを突然思い出したので、思い出すままに書き留めておく。今回はなんの落としどころも役立つ情報もないが、興味のある方は少しだけおつきあいいただきたい。
※後半に人の死をリアルに描いた描写があります。苦手な方はお気をつけください。
Contents
心に残る、ある発達障害者(たぶん)について
私の周囲には未診断も含め多くの発達障害者(またはその疑いのある人)がいるが、とりわけ心に残っている人がいる。
それは実の伯父(おじ)である。
自分が診断を受けて以降、彼のことを公の場で口にするのはおそらく初めてだ。
ずっと書きたいと思っていた。彼の鎮魂のため、私自身のグリーフケアのため、またひょっとしてどこかの誰かの役に立つかもしれないという気持ちで、ここに書き残しておく。
彼はいつもへらへらふらふらしていた
私が物心ついたときから、父方の伯父(つまり父の兄)は家にいた。
それが少なくともよいことではないということは、幼い私にもなんとなくわかった。
彼は毎日家にいて、昼間から暇そうに家の中や庭をあちこちふらふらしていた。家族にへらへらとちょっかいを出しては、邪魔がられてまた誤魔化しにへらへら笑う。ときどき昼からお酒を飲みすぎていつも赤い顔をしている時期があった。友達がいるような様子もいっさいなかった。
つまり、今の言葉でいえば無職ひきこもりニートのぼっちで、アル中である。
たまーに働きに出ているときもあったけれど、そういうのもすぐにやめてしまう。彼が働きに出ているのを見た記憶の最後は私が小学校に入るか入らないかぐらいの頃だから、おお… よく考えれば彼は当時40にもなっていない、30代後半だったはずだ。いまの私と同じぐらいの年代ではないか。
○○にいちゃん、お仕事どうしたの? と訊くと、本人を含め皆がモゴモゴいう。空気の読めなかった私もさすがにそのうちそこは突っ込まなくなった。
洗練された座敷牢
あんなみっともない人が家系にいると知られると恥ずかしいから、○○にいちゃんのことは学校では秘密にしておきなさい… そう私に繰り返し言って聞かせたのは母だった。
母は団塊の世代。今から30年ほど前の当時ではフルタイムでバリバリ働く女性は少なく、私はいつもピシッと洋服を着込んで赤い口紅をして都内まで働きに出る、知的な印象の母を密かに誇りに思っていた。
しかしいま思えば、どう考えても感覚過敏傾向があり、偏頭痛の持病を持ち、コミュニケーションにもなんだかクセがあるという、私とそっくりの体質だった(≒つまりかなり発達障害くさかった)母には、フルタイムで働きながら子育てまでする生活はとりわけきつかっただろう。週末だの、ストレスがかかったときだの、しょっちゅう偏頭痛で寝込んでいた。
あとになって聞けば、夫(私の父)に十分な稼ぎがあったにも関わらず彼女が無理してまで働いていた理由の大きなひとつには、伯父の存在があったらしい。
当時の実家は大所帯で、父方の祖父母、伯父、父と母、私と兄の7人世帯だった。高校生ぐらいになってから聞いたところによると母には、「義兄という『ごくつぶし(本当にそう言っていた)』がいて、義父母も年老いつつあるこの家は、たとえば夫が倒れれば経済的に立ちゆかなくなるかもしれない」という不安があったようだ。
この人さえいなければ私はこんなに無理しないですむのに、という気持ちが根底にあったのだろう、母は伯父のことをとりわけ忌み嫌った。
話しかければあからさまに無視し、しつこければ罵り、私にさんざん「ああ鬱陶しい、腹が立つ、同じ空気を吸っているだけでどっと疲れる」などと愚痴った。
私はごく小さい頃こそ母に取り込まれ、伯父に対して同じような態度をとっていたが、10歳を過ぎるぐらいになるとだんだん伯父に同情するようになった。「これって家庭内いじめではないだろうか」と思ったのだ。
それは、私自身が小学校でクラスの子どもたちや担任の教師から似たような扱いを受けて苦しんでいたからだ。
そりゃ、友達も一人もいず、誰にも存在を認めてもらえず、嘲笑われ軽蔑され疎ましがられてたら、私だって大人なら昼からたくさんお酒飲みたくもなるよ… そう思った。
父も父で、「働かざるもの食うべからず、○○にいちゃんには本来、うちで飯を食う権利がない。お前たちは○○にいちゃんのようになるなよ」と私に口を酸っぱくして言って聞かせた。私は伯父に対して(当時は理由を自覚していなかったものの)シンパシーを感じると同時に、「私もいつかこの人のようになるかもしれない」と恐怖を感じるという、混乱した感情を抱くようになった。
あれは洗練された座敷牢だったと、今となっては思う。もう少し障害が重かったり、もう少し時代が古ければ、彼のような… 私のような人たちはたぶん、座敷牢に閉じ込められたのだ。
「職人にでもなればよかった」
伯父は歌舞伎役者の女形みたいな、スッとして女性的な顔をしていた。そのうえもともと色白なのに加えてぜんぜん外に出ないから日焼けもしていなくて、酔っ払っていないときはとてもきれいだった。
手先が器用で、家の中で小さな電気機器など壊れたりするとそういうのを修理するのは必ず伯父だった。ハンダごても扱えたし、タバコの包装紙で大きなオブジェを作ったり、たまに彫刻したり、私の人形遊び用の立派なおうちを作ってくれたり、手先で細かな仕事をするのが大好きなようだった。身体の感覚が繊細なようで、マッサージも得意だった。
○○にいちゃん、なにかの職人とか鍼灸師とかになればよかったのにね、というと、必ず「そうだな、どこかの師匠について、若いうちに職人とか鍼灸師とかにでもなればよかった」と、しみじみと言っていた。
自分が30を過ぎて診断を受け、発達障害まわりの歴史なども知ってみると、「私はあのとき、彼や私のようないわゆる職人タイプの発達障害者がだんだん居場所を失っていった高度経済成長期の流れを身体で感じていたのだ」と嘆息する。
「大学を中退するようなやつは信用するな」
両親はよく、「大学を中退するようなやつは信用するな。そういうやつは何をやっても続かないんだ」ということを私たち子どもに言い聞かせていた。「○○にいちゃんのようになるな」の亜流の発言だ。
伯父は、大学を中退した。仕事もいくつも転々としたあげく、最終的にはまったく働かなくなった。
そう、確かに伯父は何をやっても続かなかった。
私は伯父のようにならないように、ならないように怯えながら少女時代を生き、大学も一応卒業した。
けれど、私は新卒以降、「何をやっても続かなくなった」。
「うちにはごくつぶしが二人いるからなあ」と父に皮肉を言われて、どうしていいかわからないので私はへらへらと笑った。ああ、私もやっぱり○○にいちゃんのようになってしまった、と絶望した。
「○○にいちゃんは馬鹿だ」
私が大学を出て「無職引きこもりニート」をやるようになった時期だろうか、父だか母だか忘れたが、伯父が大学を中退するに至った経緯を教えてくれた。
伯父は団塊の世代だった。全共闘うんぬんの頃で、まじめで哲学的だった彼は学生運動に没頭した。
あるとき運動の流れがパッと変わった。浅間山荘事件だかなんだかがきっかけとなったのだったか、学生運動に没頭していた若者たちがいっせいに「これでは自分の将来に都合が悪い」とヘルメットと角材を投げ捨てて髪も切り、就職活動に没頭しだしたのだ。
おっとりとして純粋だった伯父は、うっかりしていてその流れに乗り遅れた。学生仲間に陥れられ、何かの騒ぎで大学側に見咎められたときにその首謀者として祭り上げられてしまった。
私は違いますと頑張ればよかったのに、彼は「わかりました、辞めます」と言ってさっさと大学を辞めてしまった。
その後、お見合いの話はあってうまいこといきかけたことがあったのだけど、祖母(伯父の母)が相手方に大変失礼なことをして破談になってしまった。
○○にいちゃんは馬鹿だ。もっとうまいことやればよかったのに。ああいうふうに不器用だと、人生のすべてにケチがつくんだ。… 父が言ったのか母が言ったのか、それとも私が思ったことなのかはもう覚えていない。
確かに伯父は馬鹿で不器用で、人生のすべてにケチがついている。
けれど、どうしてこんなふうになってしまったのか? あまりに可哀想で理不尽ではないか?
不摂生がたたって病気に
伯父はお酒の飲みすぎなどの不摂生がたたって、だんだん病気をするようになった。痛風、心筋梗塞。彼が心筋梗塞の大きな発作を起こして生死の境をさまよったときのことはよく覚えている。母が救急車を呼ぶと言っているのに、やっぱりいつもみたいにへらへら笑っていた、真っ青な顔で。
心筋梗塞のときは大手術で気管挿管をしたのだが、それ以来かすれた声しか出なくなってしまった。母が、「ちゃんと声を出せるようになるリハビリをしなかったからいけないのよ」ということを言っていたが、どこまで本当かわからない。家の中で、彼の発言はますます堂々と無視されるようになった。
痛風の合併症で腎不全も起こし、人工透析にも通うようになった。人工透析というのはやはりそうとうにきついもののようで、ときどき貧血か何かでふらついて倒れ込んだりもしていた。常用する薬で便秘するからそのための緩下剤を飲み、それでゆるくなりすぎて夜中にトイレに起きるも、低血圧になっているからふらふらしてしまってトイレに間に合わず漏らしてしまう、などだんだん病人然としていく。きれいだった顔はいつもむくみがちで、昔の面影はあまりなかった。彼はまだそのとき50代だったはずだ。
未明の勉強会
私が20代後半の、クリスマスを間近に控えたある日だった。睡眠相が後退しまくって夜中の2時3時にまだ起きていた私と、朝早くからの透析のために早起きしていた伯父が居間で出会うようになった。
彼は、刺激のない毎日の中で、バイクがブルルンと届けにきた新聞を朝一番に開いて読むのが唯一の楽しみだったようで、よく夜中に居間で新聞を読んでいたのだ。
あるとき、「なあ、ハブ(HUB)ってなんだ?」と彼が訊く。
この人は何も考えていないように見えてこんなことに興味を持つんだなあ、と驚きながら、私は説明好きなので一応説明した。
ハブというのは結節点のことで、ハブ空港とかもあるけど最近ではパソコンとかのネットワークをつないでタコ足配線みたいになってるやつのこととかをハブともいうし、そういう感じのイメージのことを抽象的にハブとも言う、といったようなことを答えた。
すると彼は興奮したようすで、いったん自分の部屋に戻って分厚いスクラップファイルを持ってきた。見ると、新聞記事などで興味を持った部分をちまちまと切り取っては集めているようで、ハブについての記事の切り抜きもそこにあった。
私はまた驚いて、そこから私と伯父の深夜(というか未明)の勉強会がほぼ毎夜開催されるようになった。私たちは夜中の2時か3時ぐらいから空が明るくなってくるまで、数え切れないような形而上学的なテーマや文芸などについて語り合った。
彼の感覚の鋭敏さと頭の切れは見事なもので、たとえば哲学科専攻の大学院生とでも話しているような感じだった。
私も私で大学を離れ、そこで築いたわずかな人間関係からも離れて暮らすようになっていたので、久しぶりの知的刺激に興奮し、陶酔した。求めていた友人はなんとここにいたのか! という感じだった。
もったいない。本当にもったいない。なんてもったいないのだ。こんなに知的で繊細な人を皆が無視してきたなどと。
もみの木は残った
彼は庭のもみの木を眺めながら、山本周五郎の「樅の木は残った」という小説が大好きなこと、当時はもう亡くなってしまっていた祖父(伯父の父)に「うちのもみの木を頼んだ」と言われたこと、だから僕は毎年クリスマスをちゃんとやりたいと思うんだ、ということをぽつぽつと語った。
私は、私たち子どもが大きくなってしまい、ほとんど誰も興味を持たなくなったのになぜ今でも毎年、12月が近づくといそいそと物置から電飾を取り出し、配線をちまちまと修理し、電球を交換してきちんと飾りつけし、パーティーはしないのかしないのかとしつこく聞いてくるのだろうかと疑問に思っていたが、その謎が解けた。
私は半泣きになりながら、わかった今年のクリスマスは私が主導して盛大にやろう、と言った。
クリスマスイブ、私はホールケーキを買ってきて、部屋の中も飾りつけし、クリスマスソングを集めたプレイリストを再生し、盛大にクリスマスパーティーを執り行った。途中で、なんでも自分のコントロール下に治めたい祖母が「こんなイチゴまずい!」などと騒ぐのを「じゃあ私がもらうねー♪」などと制しながら、楽しく過ごした。伯父はへらへらではなくニコニコしていて、この人のこんな顔は初めて見た、と思った。
せめて私だけは取りすがろう
※人が死ぬ描写があります。苦手な方は退避※
※人が死ぬ描写があります。苦手な方は退避※
※人が死ぬ描写があります。苦手な方は退避※
※人が死ぬ描写があります。苦手な方は退避※
私が伯父と未明に勉強会をするようになってからきっちり3ヶ月後、その年の彼岸の中日、伯父は自室のベッドの上で眠ったまま死んでいた。
その日は透析の日で、遅くとも5時ぐらいには起きてくる伯父が起きてこないから、祖母が起こしにいったところ「息をしていなかった」のだそうだ。
私はその知らせを、(当時海外赴任していた)父の携帯からの電話で知った。朝の5時過ぎかなにかだ。父は普段から滅多なことがなければ自分から、よりによって私に連絡してくることなどないから、鳴った瞬間に何かあったなと思った。
「ばあちゃんが、おんちゃん(お兄ちゃん)を起こしにいったら息してないって電話してきたんだ… 悪いけど見にいってくれるか」
父は一言一言噛みしめるように言い、私はそれを一個一個胸に刻みつけるようにして、「わかった」と言って音をたてないように走って伯父の部屋に行った。
途中で祖母を見かけたが、祖母は伯父にとりすがるでもなく、台所で変に赤い顔をしてうろうろしていた。
走りながら私は、この人は前からどこかおかしいと思っていたけれど、息子が息をしていないというときに自分で救急車も呼ばなければ取りすがりもしないこの人はやっぱりはっきりとおかしい、と思った。
私は祖母に、救急車を呼ぶよう命じると、一瞬の躊躇のあと、伯父に人工呼吸を施した。だって、心肺停止の人がここにいる。まだ救急車は来ていない。そして私は死亡診断する能力がない。
気道確保の姿勢はうまく作れないし、唇は冷たかった。でも、十中八九既に死んでいるにしろ、万一以下の確率で蘇生するにしろ、誰かがこれくらいしないと伯父は浮かばれないだろうし、私も私で一生後悔するだろうと思ったのだ。
救急隊が到着し、「残念ですが意味ないです。亡くなってます。ほら、死後硬直も始まってるでしょ」と言われ、私はほぼ真っ白の頭の中で「それで気道確保の姿勢が作れなかったのか… まあ、わかってたけど」と思った。
病院外で亡くなったのでこれから監察医が来ます。しばらくお待ち下さい、と言われ、私は「ここにいてお経を読んでもいいですか」と尋ねた。
枕経(まくらぎょう)というものを上げようと思ったのだ。枕経というのは、亡くなった人の魂がそこを離れないうちにお坊さんが枕元に駆けつけて上げる、死者の魂を浄土に導くためのお経だ。
当時私は仏教徒だったのもあったし、たまたまほんの数日前にお坊さんと話す機会があって、枕経の話を聞いたのもあった。
ともかく、この世でほかに誰一人として彼の死を悲しむ人がおらず、彼を送るために何かしようという人がいなかったとしても、私だけはそうしようと思ったのだ。
私は彼の冷たくなった手を布団ごしに握りながら、子守唄を歌うような感じで仏説阿弥陀経を唱えた。西のかなたに極楽というものがあって、そこはこんなに素敵なところだよ、と伝える美しいお経だ。
それから私たちは、事情聴取に来た警察の人にさんざん同じことを何度も訊かれるなど大変な思いをした。一段落した夕方ごろに電話が鳴ったので兄が取ると「○○さんが今日まだいらしてませんが」というものだった。伯父がいつも透析に通っている病院からだ。
「どう言っていいのかわかりませんが、伯父は今朝亡くなりました。いままでお世話になりました」と兄が言うと、病院側は、そうですか、こちらこそいままでお世話になりました、と言って電話を切ったらしい。
彼の死を噛みしめて生きる
私ははっきりと思う。伯父のような人生と死を迎える人を、一人でも減らしたいと。
伯父のぶんも生きると言ってはあまりに陳腐だが、自分が何か発信するとき、また働きたいと願うとき、いつもどこかで私を駆り立てているのは伯父へのシンパシー、伯父をあのように失った悲しみだ。
○○にいちゃん、今朝の夢にあなたが出てきてくれました。おかげで今日はあなたのことを強く思い出してどうしようもないので、あなたのことについて書くことにしました。
またお互いの都合がいいときに勉強会をしようね。