攻撃性を捨てることはかくも難しい ―アサーションに潜む落とし穴

この記事の所要時間: 629

近しい関係性の中から攻撃性をきれいに除いていくということは、なかなかに深くて難しいチャレンジだということを最近学んだ。それについてまとめておく。

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アサーション実践の2016年

昨年、2016年は、アサーションの実践を念頭に過ごした気がする。

アサーションとは、他者を攻撃するでもなく自分を抑圧するでもなく、他者をも自分をも過不足なく尊重しながら行なう自己主張のことだ。

詳細はこちらの記事に書いている。
(いま読み返すといまいちまとまらない構成で申し訳ない)

アサーションとは、他者を攻撃するでもなく自分を抑圧するでもなく、他者をも自分をも過不足なく尊重しながら行なう自己主張のこと。魔女宅の「あたし...

「攻撃性を捨てる」ことについての新たな気づき

アサーションしているのにうまくいかない?

2017年に入って、あれ? アサーションしているのになぜかうまくいかないぞ? と思うできごとがいくつか起きた。代表的なメソッドに従ってきちんとIメッセージ※を使っているのに、なぜか相手が怒ったり、責められたと感じてしまったりする、ということが続いたのだ。

※アイ・メッセージ。常に「私」を主語にする。たとえば「なんであなたはそうするの」ではなく「私はあなたがそうすると悲しい」という言い方にする

こういったときには、「こちらはきちんとアサーションしてるのになんで私が怒られなければならないの?」と、私のほうまで腹が立ってくることもあった。

アサーションは相手との関係を良くし、互いを支配・被支配の力関係から自由にするはずなのに、なぜか敵対関係・攻撃関係になってしまう。これはどういうことだろうと思った。

攻撃性はアサーションにさえ潜みうる

あるとき、くるくると考えていてはたと気づいた。

もしかすると、アサーションは私をすっかりヘルシーで自立した人物に変えてくれる魔法の杖でもないし、誰かへの隠された依存や敵意をまっさらにしてくれる免罪符でもないのではないか?

主語がIである以上、アサーションするIが歪んでいれば、発されるアサーションは自ずと歪むだろう。ならば、「私」が攻撃性を捨てきれていなければ、攻撃性は「私」の行うアサーションに漏れ出てしまうと言えるだろう。こう考えてみてとてもしっくりきた。

タイミングの歪み、内容自体の歪み

ここで、アサーションが相手との関係性を良くしてくれなかったシチュエーションをもう一度思い出してみて、私のアサーション、つまりアサーションしていた私にどんな歪みがあったのかを分析してみた。分析の結果、2つの歪みに辿り着いた。

1.タイミングの歪み
2.内容自体の歪み

以下、わかりやすいようにかなり極端なたとえ話で説明しよう。

1. タイミングの歪み

たとえば、「私はあなたを心底愛している」というアサーション。これを、その相手が1週間一睡もせずに何かに追われていて、心身が限界まで疲れていてフラフラなときに私が100回繰り返して行えば、それは十分相手への攻撃になりうるだろう。

この場合の「私はあなたを心底愛している」という言葉は、表面上はアサーションの形をとっていても、深い意味でのアサーションではない。相手の状態を見ず、「自分の気持ちを伝えたい」という自分の状態ばかりに目を向けているからだ。

つまり、このときの「私」は、相手を尊重していないし、相手に愛を向けていない。自分の拡散した自我境界の中に相手を取り込んでしまった、不健全な関係性になっているという言い方もできる。

2.内容自体の歪み

たとえば、「私はあなたが憎らしくてたまらなくて、ボコボコに殴ったり蹴ったりしたい」というアサーション。この場合、いくら温かな声で誠実に表現したとしても(? こんな内容を温かな口調で伝えるシチュエーションがシュールすぎるが)アサーションしようとしている内容・気持ち自体に相手への敵意と攻撃性が含まれているのは明らかだ。

これも、アサーションの形をした攻撃にすぎない。おそらく、ここで問い直さなければならないのは言い回しではなく、「相手が憎らしくてたまらなくてボコボコに殴りたいという自分の気持ちは本当に正当なのかどうか」なのだと思う。

もちろん、そういった気持ちが本当に正当な場合もあろうが(だからといって暴力がいけないことなのは変わりないけれども)、日常の中でうまくいっている時間のほうがずっと長いにもかかわらずアサーションをするとギクシャクしてしまう、という場合には、この例をマイルドにわかりにくくしたような歪みが「私」の中に存在するのかもしれない。

「誘いを丁重に断る」という形の攻撃

オットに攻撃をしていた

私は最近まで、オットから複数人の食事や飲み会に誘われても断ることが多かった。断る理由の大半は私自身の体力的・特性的問題だったのだが、先日、夜に飲み会を控えた昼間、上記のようなことを考えていてはたと気づいた。

私は、オットに攻撃をしている。
たった5%ぐらいの分量だけど、それでも私は彼に攻撃をしている。

私はオットのことが大好きでたまらず、二人でいられるだけで生きている甲斐がある! というぐらい彼を慕っているのだが、彼はとても忙しい人で、なかなか二人きりでゆっくり過ごすような時間を作ることができない。

彼の気持ちを本当に慮るならば、彼自身こうした状況をとても申し訳なく思っているし、時間がとれるときには最大限時間をとろうとしてくれているし、何よりも、いつもありあまるほどに私を大事に思っていてくれていることがわかる。

しかし私はときどき、彼への想いを持て余してしまう。不仲だった両親の記憶から抱えている、「やっぱりだめになるのかもしれない」といったような必要以上の不安もあって、すぐにヒネたり病んだりしてしまうのだ。いわゆるヤンデレである。

つまり、私の中の5%ぐらいがこういう感じになる。

「二人きりでいたいのにそうしてくれないあなたの予定になんかつきあってやるもんか!」
「あなたが構ってくれないから私はこんなに思い悩んでしまって外出もできない、ほらほら可哀想でしょう?」

無意識のボイコットとコントロール

前者はいうなればボイコット、後者は「弱さによるコントロール」だ。いずれにしろ攻撃的で他罰的な行動である。

これはいけない。夫婦は寄り添い、譲り合い、尊重しあうものなのに、敵同士のように振る舞っていた。これはいけない。そして「弱さによるコントロール」ともなると、これは私が心から忌み嫌っている、私の母のやりかたと全く同じである。これは本当にいけない。

口では「ごめんね、具合が悪くて…」と丁重に断っているけれど、私はその言動の裏でオットに攻撃していたのだ。たった5%であっても。そして、この5%はやっぱり、きっと伝わってしまっているのだ。夫婦だから。

もうボイコットなんてしない

私はとても反省して、一旦は断ったその日の飲み会への参加を表明した。オットはとても嬉しそうに来い来いと言ってくれ、オットも私もその飲み会をさんざん楽しんだ。

もちろん私には体力的・特性的な面でいろいろ限りがあるから、オットからの誘いのすべてに乗ることはできない。けれどこれからは、体力や純粋な興味が足りる限りはボイコットなんかしないでホイホイ誘いに乗っていこうと思う。私はオットからの誘いかけにほんのちょっとずつ無理をしながら乗ってきたおかげで、人生の幅を大きく広げることができてきたのだから。

Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2017 Yoshiko Soraki
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