理由はただひとつ、「だれかに濡れ衣を着せる」から
私はニセ科学が嫌いだ。心の底から嫌悪する。
理由は非常にシンプルで、ニセ科学が、「本来責められるべきでない人に罪を負わせる」からだ。
なぜ私が濡れ衣を嫌うのかというと、私自身が人生上で何度も濡れ衣を着せられてきたからだ。私は、不当な「罪」に問われて苦しんでいる人たちを見ると他人事と思えない。
濡れ衣というのは、いつも「強いほうから弱いほうに着せられる」。人の社会では、
大人が子どもに、
年長者が若者に、
男が女に、
健常者が障害者に、
働ける者が働けない者に、
健康な者が病気の者に、
性自認が身体と一致しているヘテロセクシュアルが性的マイノリティに、
ある国の多数を占める出自の(だと自負する)者が移民に、
家族に恵まれて育った者が恵まれなかった者に、
グループの者が孤立した者に、
名もなき多くの市民が、間違いを犯した者に、
濡れ衣を着せるのだ。
ときにはそのまま、「拷問にかけて殺し」てしまう。
多くの場合、これは無知と善意でもって行われる。ごく少数の場合、意図的に、悪意をもって行われることもある。
私はどの行為にも強い怒りを覚える。何かが善意でおこなわれたからといって、それが人を殺さないわけではない。
ニセ科学は多くの善きものの尊厳を踏みにじる
ニセ科学の被害者は、該当の科学分野そのものや該当分野の専門家たちのみではない。科学の有する善き側面(すべての者に対して良くも悪くも平等な態度、事実についてしか断言しない態度、専門家の成すことを尊重する態度)が広く踏みにじられるのだ。
かくして、たんなる神話や迷信、偏見の類のものに権威が与えられるようになる。
たかだかここ数十年単位の多数派の意見を「常識」と呼び、たかだか数十年前の多数派が(良きにつけ悪きにつけ)やっていたに過ぎないことを「伝統」と呼び、美化し、称揚する。ときには「人間の本能」と断言までしてしまう。
それらの表現と表裏一体になっているのは、少数派の存在否定である。こう言わないのは非常識、こう考えないのは「非国民」、こうしないのは「人非人」。
こうなると、多数派が少数派を断罪し、リンチし、最終的になぶり殺してしまうところまではあと数センチしかない。だって、相手はもう「人間ではない」のだから。人間でない者には、尊厳も権利もないのだから。
科学の放棄は人類向上の試みの放棄
科学は、ときの権力者の権威に対抗するための、もしかしたら唯一の手段として機能してきたのではないか。
ナイチンゲールが偉大だったのは、白衣の天使だったからではない。ときの権力者の施策が間違っていたということを、統計データでもって証明し、説得したからだ。
科学のことを、人間という愚かで傲慢で攻撃的な存在の誤りを極限まで正していこうとする自浄的試みの連続であったとするなら、科学の放棄は人類向上の試みの放棄である。
殺したいだけ殺し合い、死ぬ者を死ぬままにし、虐げられる者を虐げられたままにする。それが科学なき世界だ。
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
―日本国憲法第97条 Wikipediaより
法学を含む人文科学も科学のひとつだ。
私は、基本的人権の概念を理解せず、したがって尊重しようともしないような、科学の存在しない世界に生きたくはない。もう二度と、私のような苦しみにさらされる人たちの姿を見たくない。
私は、現代の技術で救えるはずの命を救おうとせず、防げる障害を防ごうとしないような、科学の存在しない世界に生きたくはない。もう二度と、私のような苦しみにさらされる人たちの姿を見たくない。
だから私は、どうにかしてこの不穏な動きをせめて少しでも減速できないか、頭を抱えて考え続けている。
※この記述によって著者は、現行の日本国憲法を肯定または否定するものではなく、憲法改正についてのいかなる立場を表明するものでもありません。