【悲しみについての覚書】悲しみとは祈りである

この記事の所要時間: 68

悲しみとは喪失を受容しようとするステップのひとつであり、これはある種、圧倒的な現実に対して無条件降伏するという点で祈りのようなものである。いずれにしろ悲しみは人の救いにとって欠かせない感情だ。

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悲しみとは喪失を受容しようとする過程のひとつである

悲しみというのはおおまかな定義的には、愛着の対象を喪失した場合に出てくる、身体反応を伴う感情のことだ。喪失する愛着の対象は人やペットだけでなく、仕事や生活環境などの状況も含まれる。対象の喪失は死だけでなく、状況の変化でも起きる。

悲しみ(sadness)も悲嘆(grief)も同じ喪失の文脈で扱われ、あまり区別がつかない。両者の違いは調べたところ諸説あって難しいが、私の理解では、悲しみ(sadness)をやや形式ばって表現したのが悲嘆(grief)だろうというところだ。

悲嘆についての第一人者は精神科医のエリザベス・キューブラ―・ロス。彼女の提唱した、「死の受容の五段階のプロセス」は非常に有名だ。

ロスの「死の受容プロセス」については以下の過去記事でも書いている。

ニセ医学・トンデモ医学の存在が、発達障害児の母親たちを障害受容から遠ざけるかもしれない、という論考。キューブラー・ロスによる「死の受容プ...

悲嘆(grief)という言葉を広め、研究対象として普及させたのはロスであろうと思う。彼女の活動によって、「『悲嘆』は喪失をきっかけとしたひとまとまりの精神活動であり、『怒り』や『悲しみ』などの感情が含まれる」という捉え方も広がったように思われる。

悲しみとは祈りである

ロスによれば、人は大きな喪失を経験したとき、5段階のプロセスを経て喪失を受容していく。

  1. 否認(こんなことが現実のはずない)
  2. 怒り(なんで私がこんな目に!)
  3. 取引(こうしたらこの事態を避けられるよね神様?)
  4. 抑うつ(悲しい、絶望だ、私は無力だ。なにもやる気が起きない)
  5. 受容(そうだ、私は○○を失ったんだ。静かで穏やかな気持ちだ)

喪失をうまく受け入れられていない段階が3まで。喪失に対するさまざまな抵抗を諦めて4の悲しむ段階を経ることで初めて、喪失を受容する5の段階に至ることができる。

突然だが、キリスト教では、唱えた祈りの末尾に「アーメン」と唱える。

アーメンとは、ヘブライ語でcertainly、「然り」「まことに」「そのとおりです」という意味。神的なもの、運命のような逆らえず決定的なものに対して、武器を捨てひざまずいて無条件降伏するかのように唱える「然り」なのだ。

だとすると、悲しみはこの「アーメン」なのではないか。

神よ、天よ、運命よ、自然の摂理よ。私は大切な大切な○○を失いました。アーメン。然り。まことに。私は悲しく、絶望し、これらの圧倒的現実の前に無力です。アーメン、然り。まことに。

悲しみはこのような、祈りであり、現実を前にした降伏宣言なのではないか。

聖書でも、surrender(降参する、放棄する、身を任せる)という表現が出てくる。

Surrender yourself to the Lord, and wait patiently for him.
…Let go of anger, and leave rage behind.

Psalm 37:7-9 GW – Surrender yourself to the LORD, and – Bible Gateway

私がなんとなく訳すとこんな感じだ。

主に汝の身を投げ出し、主を忍耐強く待ち望め。
…怒りを手放し、憤怒を捨てよ。

喪失に出会ったとき、抵抗を諦め、その避けられない現実を前に身を任せること。それは受容であり、宗教的にいえば祈りである。それが結果的に心と魂の傷を回復させ、ヘルシーなものに導いていく。

繰り返す祈りは「悲しむための練習」である

AA(アルコホリック・アノニマス、アルコール依存症の人たちのための自助会)で伝統的に唱えられている「12のステップ」というものがある。

1.私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
2.自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
3.私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
4.恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。
5.神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。
6.こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。
7.私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。
8.私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。
9.その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。
10.自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。
11.祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。
12.これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージを他の人たちに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。

ステップと伝統|家族の回復ステップ12|familyRecoveryStep12

これをつくづく感じるのは、心の深いレベルでのアンバランス、病的状態を癒やすのは、「喪失をきちんと悲しむ」行為なのではないかということだ。ちなみに、ここで失っているのはたぶん、「理想の自分」だ。

アルコール依存症の人たちは、これらの祈り(と言っていいだろう)を繰り返し唱えることによって、「悲しむ練習」をし続けているのだろう。逆に言えば、悲しめなければ人は病むわけだ。

この祈りのすばらしいところは、神的なものについて「自分なりに理解した神」というふうに慎重に表現しているところだ。

私は物心ついたときから、人の心の健康や救いには宗教的な価値観が不可欠であると思っている。結果的に成人後にキリスト教に信仰を持つようになったが、私がどの宗教を信じているかは本質的にはどうでもいい。人生上のどこかの瞬間に、人を超えたものにある程度身を任せられる精神的態度を持つことは、実際に非常に精神的健康の役に立つと思う。

悲しみは祈りである。祈りは人の救いにとって重要である。つまり、悲しみは人の救いにとって重要である。

Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2017 Yoshiko Soraki
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