2017年に出版された「自閉症と感覚過敏」熊谷高幸 を読んだ。当記事ではこの書籍の後半部分についての感想を記しておく。
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「自閉症と感覚過敏」後半の懸念点に触れる
この本について、前半の記事では感覚過敏と自閉症の関係性に触れた部分についてレビューを行った。
後半であるこの記事では、本の後半部分、自閉症児者をどう支援・教育していくかの部分について懸念点に触れ、そこから考えたことを記しておきたい。
「刺激過多な環境下の子育ての問題点」を指摘するだけで終わってよいのか
熊谷氏の以下の仮説は、前半の内容を踏まえれば個人的には理屈として非常に納得のできるものだ。
・自閉症の素質は先天的であっても、それがどのように発現するかは乳幼児期の生育環境が大きく関わっている。感覚過敏を持つ子どもを乳幼児期に刺激過多な環境に置くと、より重度な自閉症が形成される可能性がある
・現代に自閉傾向を持つ者がどんどん増えているのは、現代社会が基本的に刺激過多な環境だから
しかし、だからといって現在の社会環境下で「では世の中の育児担当者はスマホやテレビに頼らない子育てをすべし」と言うことで終えてしまってよいのかというのが、私が懸念するところだ。
この時期には、子どもを過剰な刺激の中にさらさず、落ち着いた環境の中で親子の関係を作っていく必要がある。また、テレビや電子機器などから多量の刺激を受けることのない状態にし、すぐ手に取ることができるところに多量のオモチャや食品などを置かないようにすることが望ましい。……それ(刺激の選択)がむずかしい子どもたちもかなりの割合でいることを忘れてはならない。
これは至極まっとうな正論なのだが、「では、現在のメインの子育て担当を任される立場の人間(≒母親たち)は、こうした子育て態度を楽に貫ける環境下にあるか」と言えば、残念ながらNOだ。
以前ならば社会のリソースも家庭のリソースも豊かで、子どもを家族や近所の人も含めた複数の大人たちで育てていくことができた。しかし、高度経済成長期を経て日本人は核家族化した。さらに不況を経て、男性は低賃金での長時間労働で育児や家事を思うようにこなせず、女性は家計のために育児中も無理して働かなければならなくなった。
保育環境は保育士への低待遇のせいでなかなか充実しない。大量に存在する子育て世代の親世代たちは介護が必要な年代となり… 結果、子育て中の母親たちは孤立無援の中で、子育て、仕事、介護、家事をこなさなければならないのだ。
乳幼児というのは恐ろしいもので、彼らが一人いるだけで、母親は満足にトイレに行くことも入浴することもできないという話をよく聞く。
母親たちが孤立無援なのは社会構造の結果であって、彼女たち自身の責任ではない。「ベストでない子育て」の問題点を指摘する場合には、「でも、よくないとわかっていてそうせざるをえないこともあるよね」「現状を少しでも楽にしていくためにどういったことに取り組めばよいだろうか、一緒に考えさせてください」という視点を添えておくことがとても重要だと思う。
そもそも、何が本人の本当の幸福なのか?
このあたりから私は、「そもそも何が本人の幸福なのかは本人にしかわからないよね」という考えにはまってしまった。
熊谷氏は後半の内容で、自閉症の素質を持つ子どもが「知的発達を進め、言語を獲得して重度の自閉症の状態から脱出する」ために有効な支援・教育について詳細に触れている。
この支援・教育の内容自体はさすがになるほどと思えるもので、実際の実施例なども豊富に挙がっていてとても参考になった。
しかし、ふと立ち止まって考えてしまう。そもそも、「知的発達が進み、言語を獲得すること」が、迷いもなく、100%よいことだと言い切れるのか? あるいは、知的発達が進んだ、言語獲得できた、よかったね、で終わっていいのか?
発語が難しい自閉症を持ちながら作家としての活動をしている東田直樹さんは、作品の中で「ただみんなと一緒に生きていたいのです」と吐露している(テレビ番組で引用されていたもので、出典は不明)。
私自身も、現在の社会に自分を合わせて生きていくのにはつらいこともたくさんあるけれど、「ただみんなと一緒に生きていたい」ということは強く望んでいる。だから必死に、服薬もしながら心身の調子を整え、自分なりの働き方を模索してもきた。
けれど、だからといってすべての発達障害者が、「みんなと一緒に生き」たいと考えているとは限らない。私だって、人と関わることが疎ましく、放っておいてほしいと感じることもあるし、その頻度はおそらく定型の人よりも高いだろうと思う。
いわゆる「意思疎通ができない」タイプの自閉症の人たちが、人と関わりながら生きていきたいかどうかをきちんと確認する術は、今のところないのだと思う。私がときに好きな感覚刺激の世界に没入して文字通り「傍若無人(そばに人がいないかのように)」に過ごす時間があり、これが永遠に続けばいいのにと感じたり、あるいはその時間の中に永遠を感じるように、彼らも、もしかしたら「永遠に自分の感覚世界に没入させておいてほしい。それで早くに死ぬならそれも本望」とか感じていてもおかしくない。
大事なのは「できるだけ多くの人が『楽になる』」ことでは
いろいろ疑念を呈してはみたが、「よいことかわからない以上全部周囲の独りよがりの押しつけだからやめろ!」と叫ぶのもそれはそれで間違っていると思う。発達障害児者への周囲の人たちの関わりは、大半はやはり愛で成り立っているはずだとも思うのだ。
だから、発達障害児者に支援・教育をしていくときは、まあ「ぼちぼち悪いことでもないんじゃないですか。自信ないけど」ぐらいの曖昧さや疑いを残し、やや力を抜いた態度で関わるのが、いちばん本人も周囲も苦しまないで住む道なのではないかと思う。
「アルジャーノンに花束を」という小説がある。重度の知的障害を持つ青年が、高度な医療技術によって超高IQの天才に変貌するというSFだ。
私は自分の発達障害を知る前からこの作品が大好きで、高IQを手にしたあとの主人公の心の苦しみに深く感情移入していた。彼は高IQを獲得してからは擬似的なアスペルガー症候群や高機能自閉症の状態に陥っていたとも言え、いま思えば私が彼に感情移入した理由もわかる。
名場面がたくさんあるのだが、そのうちのひとつが、手術前の主人公が「ぼくはあたまがよくなりたいです」と強く希望して、医者が「この青年の、知的レベル向上への渇望には並々ならぬものがある」と驚くシーンだ。
前後して、繰り返し彼の母親が「この子は頑張れば人よりできる子なの!」と言って泣いたり叫んだり、彼に対して執拗に日常生活上の動作の訓練を迫ったりする回想シーンが挟まる。彼は、自分に知的障害があることで母親が苦しんでいること、頑張っても思うようにできないことにずっと心を痛めており、自分が「あたまがよく」なることで母親を幸せにしたいという切実な願いを持っていた、ということなのだと思う。いつ思い出しても胸が苦しくなる。
周囲の必死の支援・教育の結果、「めでたく高機能群」に達することができた子どもがいたとして、もし(アルジャーノンに花束をの主人公のように)その子の心が強い窮屈さや傷で苦しくて仕方ないのだとしたらたぶん本末転倒だし、現状の日本社会では、高機能群だからといっていわゆる幸せな人生・職業人生を送れるとも限らないことは、残念ながら少しいろいろな事例を見ればわかることだ。
障害の軽重に関わらず、発達障害児者に対して「自分の支援や教育が正しいという自信はないし、いまの社会がベストだとも思わないけど、とりあえずあなたが現状ちょっとだけ楽になれるように、私はできることだけします」という感じで関わるのはとても大事だと思う。
それに加え、社会の多くの人々で「知的障害があってもなくても、言葉があってもなくても、発達障害があってもなくても、すべての人がより幸せに、少なくとも楽に生きられる社会システム」の作り方を根気よく探りつづけていくことができれば、たぶんそれこそが多くのことの最終的な根本解決になるような気がする。
どうか追い詰められないで
この本は多くの人に読んでほしいものではある。しかし、後半の内容は読みっぱなしでは無為に追い詰められてしまう人が出るのではないかと思い、この記事を書くことにした。
子育て中の方々、発達障害の子どもを持つ方々には、どうか追い詰められたり、自分を責めたりしないでほしいと願う。大丈夫、あなたは悪くないし、いつもできるだけのことをしてきたはず。いろいろなノイズが飛んでくると思うが、堂々と胸を張って生きていってほしい。