2017年に出版された「自閉症と感覚過敏」熊谷高幸 を読んだ。前半と後半の内容に分け、読後の感想・レビューを記していきたい。
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前半の内容はほぼ手放しに素晴らしい
前半の「感覚過敏がつくる世界」「自閉症の発生過程」の部分は手放しに素晴らしかった。自分自身(高機能自閉症)のことも、ほかの発達障害者のことも「なるほどそうだったのか」と膝を打つような仮説の連続で、これは当事者にも、周囲の人にも広く読んでほしい本だと思った。この記事では、この前半部分について詳しくレビューを行っていく。
この本で定義している感覚過敏は「感覚処理のアンバランス」
この本で定義している感覚過敏は、現在一般に普及している感覚よりもやや広義で、感覚鈍麻をも含んでいる。私が一言で表現するなら「感覚処理のアンバランス」と言えるかもしれない。
自閉症者の感覚過敏と感覚鈍麻は表裏一体
この図を見てほしい。以下の図は非常にわかりやすく納得のいくもので、私がこの本を読んだ中で最大の収穫となったものだ。
以下は、上の図を解説した部分の記述だ。(太字は宇樹)
自閉症者の場合は、ある刺激が入り込むと、感覚の枠いっぱいに広がり、そのまま停留する。すると後続の刺激は感覚の枠に入り込めない状態で通過し、見落とされてしまうのである。……これが、自閉症者に感覚の過敏性と鈍感性が同居しているように見える理由である。だから、過敏性があるからこそ鈍感性がある、といえる。
しかし、通常者の場合は、これほどの刺激の拡大と停留はない。
刺激の拡大と停留。これは私の体感にとてもぴったりくるものだ。
定型者ならツルッとやり過ごせるはずの刺激に、私は身がすくんでしまい、他に何も見えなくなるのだ。上の引用部分は、わかりやすくたとえるなら「突然目の前でカメラのフラッシュを焚かれた感じ」、「野生動物が車のライトに照らされて立ちすくむ感じ」だと言えるかもしれない。
この感じを、熊谷氏は以下のような表現でも表している。
通常人でも、衝撃的な場面に遭遇したときには刺激の拡大と停留が生じ、前後の感覚がわからなくなる。自閉症者の感覚世界はこれに近い状態といえるだろう。
本にも書かれてあるが、発達障害者にはフラッシュバック(過去の記憶がまるで今眼前で起こっているかのように鮮烈に蘇ってくる体験)が起こりやすいと言われている。フラッシュバックはPTSD(心的外傷後ストレス障害)の一症状でもあるが、発達障害者は定型者がPTSDにならないような体験でもPTSDを発症しやすく、発症した場合には重症になりやすいという説も見かけたことがある。
これは非常に納得のいく話だ。「発達障害者は普通に生きているだけで小さな小さなトラウマティックな体験を無数に繰り返している」とも言えるのかもしれない。
感覚過敏はASDの結果ではなく、むしろ感覚過敏がASDを形成している?
熊谷氏は、感覚過敏は従来言われてきたような「自閉症の結果」ではなく、むしろ(氏の定義する範囲の)感覚過敏が自閉症を形成するのではないかというスタンスに立つ。
刺激は好ましいものであれ好ましくないものであれ、強く焼き付いた場合には、記憶の中で存在し続ける。そして、周囲の状況とは独立して本人に働きかけるのである。
ここから自閉的な症状が形成されていく、と熊谷氏は言う。
熊谷氏によると、感覚過敏にまつわるできごとは5つの自閉的症状を形成する。カッコ内は宇樹による補足。
1.回避(耳をふさぐ、逃走するなど)
2.没入(常同行動、ひとりごとなど)
3.記憶化(頭の中に焼きつく。フラッシュバック的現象)
4.見落とし(周囲からすると無視しているように見える≒コミュニケーション障害、注意散漫・過集中)
5.行動の切り替え困難(こだわり、コミュニケーション障害など)
ADHDやLDも「感覚過敏」の結果なのではないか
熊谷氏は、ADHDやLDも(氏の定義するところの)感覚過敏の結果なのではないかと続ける。
自閉症スペクトラムと診断された同じ子どもが、ADHDやLDと診断されることもありうるのである。では、これらの障害をつなぐものは何だろうか? 私は、そこにも感覚過敏が関係していると思うのである。
……(ADHDは)注意欠陥と名付けられてはいるが、あらゆるものに注意が向かないわけではなく、好きな物には強い関心をもっている。……注意とは、特定の対象に感覚や認識を集中した状態である。だから、感覚の過敏と鈍感があると、注意の状態にもムラが出てきやすいのである。
……(LDについていえば)読み書きや計算では、読むこと、書くこと、聞くこと、数量をイメージすることなど、多くの感覚や運動の機能を同時に働かさなければいけない。感覚過敏は感覚のあいだにアンバランスがある状態だから、このような統合的な処理がむずかしくなるのである。
ここも個人的にはとても納得がいくところだ。
ADHDの人に関しては、当事者やその周囲から「その瞬間ごとに『人生でいちばん優先すべきこと』が切り替わってそれで頭がいっぱいになり、それ以外のことに注意を向けられなくなる」という話を聞く。
たとえば私はどんなに心配ごとがあっても、トイレを流し忘れるとか、トイレの電気を消し忘れるということはほぼありえないことだ。どちらかというと無意識のレベルでそれを習慣として行っていて、むしろ流すなとか電気を消すなと言われたほうが困る。しかしADHDの人の場合、何か考えごとをしたり悩んだりしているとトイレを流し忘れたり、トイレの電気を消し忘れるということが頻繁に起こるそうだ。
LDについては、先日のNHKの特集で「文章の中の文字が1文字ずつ迫ってくるように感じられて、一連の文章として感じることができない」という読字障害の再現ドラマがあり、それにとても納得したことを思い出した。
感覚過敏が自閉的な症状のベースになるという考え方は、私にとてもしっくりくる。本の中でも語られているが、こうした考えでいけば、発達障害がスペクトラム状でそれぞれはっきり切り離せないものであること、また、ひとつの診断名を持った当事者が、ときに一見別の発達障害に属するような特性を呈することも、すべてつながって理解できるような気がしてくる。
感覚過敏を持つ者にとって、「人」は環境をかき乱す不安要素
自閉症児の方から見ると、人というのは物とは比べものにならないくらい思い通りにいかない、やっかいな存在である。物のように同じところにとどまっていてくれないし、また、自然には動かないはずの物の位置を変えてしまう。
…人は勝手に動き出し、いつどこにいるかわからなくなる。そして、急に声を発し、自分に働きかけてくる。だから、自閉症の人にとっては全く行動を予測しにくく、不安を感じさせる存在となるのである。
これもものすごく同感だ。私にとって生きるうえでの一番の不安要素は、ほかの人間の言動なのだ。不確定要素が多すぎ、関係を乗りこなすための曖昧なスキルが多すぎる。同じ生き物でも動物や赤ちゃんならなぜか多少安心して関われるのはなぜだろうと考えてみて、「言葉」という、関わり方を大きく複雑化させる要素が介在しないからだと思い当たった。
熊谷氏は、知的障害があり、発語が少ない重度の自閉症に関して、以下のように仮説を立てている。
子どもの知的発達と言語獲得には共同注意(大人が示す対象に共同して注意を向けること)がベースにある。しかし感覚過敏の特性をもつ子どもは「注意を切り替えにくい」「大人の働きかけを拒否しがちになる」という傾向があるので、この共同注意が成り立ちにくい。結果として知的発達や言語獲得の遅れにつながるのではないか→ 感覚処理に伴う負担をできるだけ軽減する支援・教育が必要だろう
同じ「感覚過敏」がベースにあるASDとADHDの違いはどこからくるのか
ほかに面白かったのが、熊谷氏の解釈では同じように感覚過敏(感覚処理のアンバランス)があるASDとADHDの間に、行動様式の差が出てくるのはなぜか、というくだりだった。
感覚過敏があるとひとつの刺激や記憶に頭が支配されるので、感覚過敏者は基本的にはどちらかというと「過去」にとらわれた行動様式を持ち、なかなか「現在」に向かって踏み出さない状態になる。これが臆病な慎重派になりがちなASDの基本形だ。
いっぽうでADHD者の場合、「現在」がとらえられないのが不安なので、「現在」についてあいまいなまま、新しい「未来」のイメージに向かって突進する行動様式となる。結果、彼らは衝動的だとか、勇み足だとか言われることになるのだ。
どちらにしても、ベースに感覚処理のアンバランス→ 「現在」を的確にとらえられない、というところに共通点がある、というあたりがなるほどであった。
私はASDに位置する人間で、基本的には「石橋を叩きすぎて壊す」と言われるような慎重派なのだが、ときどき突然周囲が予想もしないような行動に出たりする。私にも実は衝動性があるらしいし、発達障害者にはありがちなことだよなあと感じていたところだが、この解釈を目にしてみて、これがどういうことだったのかとてもクリアに理解することができた。
熱心な当事者研究から生まれた成果。応援していきたい
熊谷氏は心理学と教育学をベースに自閉症者のコミュニケーション障害とその支援を専門としている。彼は多数の当事者に触れ、彼らの著作(一部の例は以下)もたくさん読み込んでおり、当事者研究を非常に大事にしていることがわかる。「むしろ感覚過敏が自閉症を形成するのではないか」という着眼点は、こうしたたゆみない当事者研究が産んだものだろう。
医療の一部には徐々に、「当事者は医療・支援の専門家以上の専門家」という考えが普及してきている。私も「当事者=専門家」という立場をとる一人だ。今後も、熊谷氏の活動や、当事者の声を掬い取ろうとするメディアの発信などを応援していきたい。
後編ではこの本の後半の懸念点や考えたことを追記
前半については絶賛したものの、後半の、自閉症者に対する支援・教育の方法に触れた面については、多少の懸念点がある。懸念点をきっかけに考えたことなどもあるので、それらについてはこちら↓の後編で触れたいと思う。
特に発達障害児の保護者さん、また、子育て中の方には、ぜひ後編も読んでいただきたい。