トラウマ治療に向かい合う中で、ACがトラウマを克服して現実を生きていくには、半ば呪術的なまでのイメージの力がとても大事なのではないかということに気づいた。私が実践してきたイメージワークなどについてまとめておきたい。
Contents
トラウマ治療を経て気づいたこと
イメージの力は驚異的
私のトラウマ治療が効果的に進むようになったのは、言葉による分析に限界を感じ、イメージワーク系のメソッドを取り入れるようになってからだ。
イメージの力は本当に偉大だった。言葉でいくら分析しても、あるいは言葉でいくら自分に承認を与えてもどこか表面的なところにしか届かなかったものが、イメージを使って五感や身体感覚に訴えかけると、文字通りストンストンと「腑に落ちて」いくのだ。
あとで思ったのは、特に幼少期からの複雑性トラウマ、または複雑性PTSDには、イメージを使ってアプローチしていくのが適しているのではないかということだ。
言葉がわからないような時期の子どもが外傷的体験にさらされた場合、彼らは特に身体と直結した形でトラウマを受け取るのではないだろうか。五感にそのシーンががっちりと植え込まれてしまうような感じで。
周囲の人たちの緊張した表情、どことなく温かさに欠けるスキンシップ、痛み、思わずフリーズしてしまうような音、心臓が縮み上がるような感覚、暗がりの布団の冷たさ、あまりに静かな部屋の光景、四肢が氷のように冷たくなって震えるほどの緊張… そんなさまざまな感覚。そういった小さなころの感覚に、大人になったいまも難儀しているなら、イメージや身体感覚の方向からアプローチしていくのが近道なのかもしれない。
ACのトラウマにおすすめのイメージワークの本
アダルト・チルドレン 癒しのワークブック
私がイメージワークの力を知った最初の本がこれだった。幼少期のトラウマ体験を思い浮かべ、現在の大人である自分がそこにいたらどう行動したかを考えてみたら、私はイメージの中で突然、体験以来20年以上思いつきもしなかった行動に出て、自分を無事に守ったのだ。これはまことに痛快かつ衝撃的な体験で、これ以降、私はこのトラウマ体験を再演するような悪夢をほとんど見なくなった。
個人的には「両親を許そう」という章があるのが今でも気に入らないが、イメージワークの入門書としてはなかなか良いと思う。インナーチャイルドを育てなおすステップが丁寧に書かれてあり、後半にはアファメーション(自己肯定の言葉を自分に繰り返しかけること)の方法にもページが割いてある。
内なるデーモンを育む
「デーモンワーク」について、個人で実践できるように丁寧に解説した本。
デーモンワークは、チベット仏教の悪魔祓いの行(ぎょう)を一般化したもの。自分の邪魔をする不快感情や考え方のクセを「デーモン」としてキャラクター化し(心理学用語では「外在化」というらしい)、それを丁重にもてなすことで悪さをしないように鎮めるという、とても面白いワークだ。
座布団を向かい合わせで用意し、自分がデーモンの座布団に座ることでデーモンに成り代わってデーモンの感覚を体感するという、エンプティチェア・メソッドのような要素もある。
デーモンは、ワークの中でしっかり直視し、存分にもてなしてやることで満足して消える。その代わりに「なかま」(心理学用語ではイマジナリー・フレンド)が出現し、それまでデーモンの隠し持っていた智慧を与えてくれるようになる。
私が最も気に入っているのは、最終的に「私」はこの「なかま」と一体になり、空(くう)の安らぎの中に消えていくというところだ。私はそれまで、生活の中で深い安らぎや安心感を得るのに困難を感じることが多かった。しかしデーモンワークの最後では、いままで体感したことのないような平安を感じることができたのだ。
こんな体験もあった。あるとき、自分をいつも振り回す「不安」を扱ってみようと思い、「不安のデーモン」をイメージしてみた。すると、目の前に浮かんでくるのがなぜか母の姿なのだ。普段は何かしら特異な化け物の姿が浮かんでくるので、気のせいかと何度も振り払ってみても、どうしても母の姿が浮かんでくる。仕方ないので母のイメージを相手にワークをしてみる中で、私は今まで自分を駆り立て振り回してきたわけのわからない衝動のようなものが、間違いなく母の「亡霊」そのものであったことに気づいた。
私はその後、不安をトリガーにした衝動にかられるたび、「ああ、また母の亡霊が暴れている」と考えることで多少落ち着くことができるようになった。同時に、「この亡霊をきちんと成仏させる」必要性も感じるようになった。
忘れていたお伽話、そして魔法
EMDR治療が私の「魔力」を再び目覚めさせた
母の「亡霊」に憑かれていることを実感した私は、これを退散させる方法を考えるようになった。そして、ついに覚悟してEMDRを受けることにした。
※覚悟が必要だったのは、EMDRは効くぶん副作用も大きく、パンドラの箱が開いたようになるのできつくて離脱する人も多いと聞いていたからだ
EMDRとは、眼球運動によってトラウマ記憶の再処理を進めるもので、レム睡眠時の高速眼球運動による記憶処理プロセスを再現したものだ。治療者が左右に指を動かし、患者はそれを目で追いながら不快記憶や不快感覚に集中する。
医師の指示に従って目を動かしていると、次々にいろいろなイメージや感情が浮かんでくる。なぜそれらが浮かんできたのか言語化できないのだが、ともかく医師の指を追う→浮かんだものを申告する→医師の指を追う と繰り返しているうちに、不思議とだんだんストレス反応を起こさずに不快記憶と向かい合えるようになるのだ。
セッションは即応を求められる連想ゲームをしているような感じで、眠っていた連想力、イメージ力をすごい力で叩き起こされるかのようだった。初回のセッション以降、イメージのスイッチが入りっぱなしのようになって、もう数十年来固着していた悪夢やフラッシュバックの正体を勘で理解できるようになって驚いた。
たとえば私は、飼っている小鳥が病気になってグロテスクな見た目になり、手に負えないのに私が世話しなければいけない、という夢を何十年来見ていたのだが、今回、その小鳥は母だったということに気づいた。起きたあとに自分で眼球を動かしながら小鳥のイメージに集中していたら小鳥の姿が突然消え、代わりに母の姿が現れたからだ。
そういうことを何度か繰り返すうちに私は、「そういえば私には魔法の力があったんだった」と思い出した。
私は小さな頃、確かに過酷な環境で生きていた。家にも学校にも居場所がなく、誰のことも信じられなかった。けれど、私はイマジネーションの世界に遊ぶことでどんなことも乗り切ってきたのだ。
イマジネーションの世界では世界は温かく、私は輝かしい勇者だった。背中に生えた羽根でどこまでも飛んでいけたし、動物たちや木々と自由に会話することができた。
せっかくこんな素敵な魔力を持っているのに、いったいどうしてすっかり忘れていたんだろう。
私は奮い立ったようになって、それから積極的に時間をとってイマジネーションの世界で遊ぶようになった。不安になったとき、ちょっと目まぐるしく動きすぎて疲れたとき。思い悩んだり安定剤を飲んで眠ったりする代わりに、少し目を閉じて、ユニコーンや天使や、その他の存在と戯れた。そうするといつのまにか不安が消えていたり、知らないうちに眠っていて朝がきたりするのだ。
お伽話で安らぎを自給
EMDRが進むなかで医師に指摘されたのは、私は両親との間に愛着関係を結んでこれなかったということ。愛着関係とは、基本的には幼少時に養育してくれた人との間に築かれる、身体感覚をも含んだつながりの感覚。生きるうえでの重要なベースとなるものなのだが、私は長いことそれなしに生きてきたらしい。
多少ショックではあったが、まあそうだろうなと納得した。残念ながら彼らの作った環境は、一人の無力な子どもが育てられるところとしては適切だったとはいえない。私は彼らのもとで「ただ守られるべき子ども」では在れなかったのだ。
それは事実であって、今からそんなの嫌だと言ってみてもどうにもならない。私はこの欠落を抱えてこれからも生きていかなければならないのだ。
だったら、試しにきちんと親として機能する「ヘルシーな両親」をイメージしてみよう、と思った。うまくいく予感がした。だって私には素敵な魔力があるのだから。
まず、初夏のいちめんの青草の風景をイメージした。これは、理由はわからないが私が昔から、癒しや安心感の象徴として繰り返し夢に見る、いわゆるセーフ・プレイスの風景だ。
耳を澄ましていると、どこからかパカッ、パカッ、と馬のひづめの音が聞こえてきた。目をこらすと、馬をゆっくりと駆る一組の若い男女の背中が見えてくる。年齢は20かもっと若いぐらいだろうか。装束の感じからすると、中世以降のユーラシア大陸、アジアのどこかの高原といった感じだ。近づいてみると、男のほうが背中に生まれたばかりの赤子を背負っている。安心しきって眠る赤子はいつかの私。それが感覚でわかった。
父親の若く健康で温かな背中の感触と、馬の歩くリズミカルな振動、初夏の夏草とやや乾燥した風の香りを感じながら、私はただただ眠っていた。私はその赤子の五感を体感しながら、同時に彼ら家族を少し離れたところからとらえる視線も持っている、という不思議な状態に陥っていた。
若い夫婦は互いへの信頼と情熱、この家族のこれからへの希望のこぼれる目で一瞬見つめ合って笑い、うなずきあうと、ふたたび優しく馬を促して道の先を急いだ。
ああ、そうだ、私はたしかにこのように愛されたことがあった。そして私の本当の両親はこのように愛し合った、頼もしく力強い人たちだったのだ。なんだ、すっかり忘れていたよ。
…これはただの想像の産物かもしれないし、もしかしてもしかすると本当に私の前世とかいうやつなのかもしれない。その正否や真偽はどうでもいい。私がこのお伽話によって力づけられ、現実を生きていけるということが重要なのだ。
「白魔法」で「呪い」を遠ざける
正直言って、精神的加害というのは、精神科の世界と呪術の世界の中間領域にある問題のような気がする。
たとえば、小さな頃から繰り返し繰り返し、「あなたは◯◯だ」とか「世の中というのは◯◯だ」(◯◯部分にはマイナスで歪んだ価値観が入る)とかいった言葉を聞かされて育つことは、現代以前の感覚でいえば呪いをかけられるのとほぼ同じなのではないか。
だったらこちらもそのつもりで応戦するというのもひとつの戦い方なのかもしれない、と最近思うようになった。
呪いには白魔法で対抗する。神、仏、妖精、天使、すべてを包む謎のまばゆい光、薬草、スパイス、よくわからないありがたい感じのチャイム、天然石… 助けになってくれそうなものなら、なんでもかんでも総動員だ。
もちろんこの領域には怪しいものや危険なものもたくさんあるから、手を出すときには本当に気をつけないといけないし、あくまで医師による治療に対するちょっとした補助の立ち位置にとどめることが必要だ。「自分でいろいろ手を出してみてますがおかしくなったら引き戻してください」と主治医に頼んでおいたほうがいいと思う。私の場合はそのうえで、よく調べ、お金がかかりすぎず、自分にとってのメリットのほうが大きいと判断できる範囲で、「そっち系」のものに手を出してみている。
たとえばタロット占いとか
精神障害者の守護聖人である大天使ラファエルのグッズとか
オラクルカード(一枚引きの占いカード)とか
※上記のオラクルカードの作者であるドリーン・バーチューはキリスト教系の新興宗教クリスチャン・サイエンス出身で、ニューソートの系譜のかなり有名な人。宗教的ビジョンをたくさん見てきたと主張してオカルト系・自己啓発系の本を非常にたくさん書いており、「金儲け主義が過ぎる」など批判も多い。彼女の主張すべてを鵜呑みにするのは非常に危険だと思うが、彼女の出している占いカード類は、あくまで楽しんで触れるぶんにはなかなか良いと思う
7つのチャクラをうんぬんする7つの石と7つのキーの音が出るチャイムとか。
そう、今は本当にいろいろなものが私を助け、守ってくれている。私はひとりではないし、たとえひとりだったとしても、きっともう大丈夫なのだ。私には魔法の力があるから。
私はお伽話と魔法で、現実を生きていく
私はいままでどこかで、お伽話や魔法の世界に再び頭を突っ込んだら、もう現実の世界に戻ってこれないのではないかと恐怖していたところがあった。けれど不思議なことに、お伽話や魔法の世界と現実世界は思ったよりも簡単に行き来ができるし、両立可能なのだ。
誰しも小さな頃は、夢や絵本の中のできごとと現実でのできごとのことを区別せず、いろいろな存在とつながって生きていたはずだ。誰の脳みその中にも、そういった力の残滓は残っているはず。ときには目の前の現実を生きる助けとするために、お伽話や魔法の世界に浸ってみてもいいのかもしれない。