私は極端な内向型だ。弁護士・作家のスーザン・ケイン氏による「内向型人間の時代」という本に非常に鼓舞され、考えさせられた。本の内容をもとにした、内向型と外向型の特徴の比較表を中心に感想をまとめておく。
Contents
スーザン・ケイン「内向型人間の時代」
スーザン・ケイン著、「内向型人間の時代 ―社会を変える静かな人の力」を読んだ。
経緯はこうだ。
自分の人生の方向性に迷い、ネットに転がっている性格診断をいろいろやってみて、改めて自分が極端に内向的なタイプであることをつくづく確認した。
それで、「内向的」「内向型」などのキーワードで調べてみたところ、スーザン・ケインという人のTEDでのプレゼンを見つけたのだった。
荒野へ行きましょう ブッダのように 自分の啓示を見つけましょう みんな今すぐ出かけて 森の中に小屋を作り もう互いに話すのをやめましょうと 言うのではありません そうではなく 気を散らすものから離れ 自分の思索に耽る時間を もう少し増やしましょうということです
自身が極端に内向的なタイプだというケインは、控えめかつ堂々としたプレゼンをこなし、徐々に静かなる情熱を迸らせるようにして「荒野へ行きましょう」と語りかけた。
私は、いまの大量生産大量消費・コミュニケーション偏重な時代に適応できない自分を、周囲より劣った社会不適合者だと感じていた。そして、今生においては自分の魂の望むことはどこかに押し込めて無視しなければならないのだと思っていた。
しかしケインは、魂を解放せよ、無理に現世に適応しようとするな、荒野へ行って存分に思索に耽りなさい、内向型は魂の指し示す理想のためならいくらでも努力し変化できるパワーを持っている、と、静かに目を輝かせて訴えたのだ。私は世間の風にあおられて消えかかっていた自分の情熱と信念を強く奮い立たされたように感じ、背中は総毛立った。
すぐに冒頭のケインの本を注文したが、届くまでの間に似たようなジャンルの本を読んでみようと思い、このKindle本も読んでみた。「社会から出て境地を開拓」というキーワードに、ケインの「荒野へ行きましょう」という呼びかけと通ずるものを感じたのだった。
以下、上の2冊の本を読んで感じたことを、ケインの本を中心として記していきたい。
内向型・外向型の特徴を比較表にする
以下、ケインの「内向型人間の時代」で語られている内向型・外向型の特徴について、一覧しやすい比較表にしながら考えていく。
本の中では、内向型・外向型について非常にたくさんの特徴が挙げられているが、これらは「本質」「社会的役割」「生活形態」に分けられると私は考える。
また私は、「内向型と外向型にはまず本質の違いがあり、本質の違いの結果として気質の違いが生まれ、そこから、こなす社会的役割や基本的な生活形態の違いが生まれる」と仮定した。
内向型・外向型の本質とは
まず、内向型・外向型の違いの根本をなすのは、外界からの刺激に対する生理学的な反応傾向だ。
高反応型 | 低反応型 | |
感覚刺激に対して | 高反応 (閾値が低い) |
低反応 (閾値が高い) |
脳の基本的傾向 |
大脳新皮質・扁桃体型 |
大脳辺縁系型 「イエス!」 報酬刺激に反応 |
これは脳・神経系の作り・機能の違いであり、「性格」のようなソフト的な違いというよりも、身体というフィジカルな違いだと言える。
内向型は根本的に高反応型であり、悪くいえば過敏。外向型は低反応型で、悪くいえば鈍感。双方が同じレベルの刺激を受けたときに、前者には強すぎて圧倒されるから不快、後者には弱すぎて耐えられないから不快、ということも起こりえる。
脳の司令系統は、内向型はまずは警告刺激に反応して立ち止まるタイプ、外向型はまずは報酬刺激を追求して行動するタイプ。
「高反応型」は、最近よく言われる「HSP(Highly Sensitive Person)」とほぼ同じタイプの人々を表す。
内向型・外向型の社会的役割とは
本質の違いによって、結果的に気質の違いが出てくる。ケインは、内向型の遺伝子が今まで選択され受け継がれてきた理由は、社会の維持発展にとってプラスになる「思慮深さ」という気質にあるのであって、「高反応性(敏感さ)」は思慮深さを構成するに至りやすい一要素に過ぎなかっただろうと論じている。
高反応型・低反応型の獲得した互いに対象的な気質は、それぞれまったく違ったアプローチで社会・コミュニティの維持発展に役立つために選択されつづけ、一定のバランスを保ちながら今まで受け継がれてきたのだろう。
見張り・参謀 (慎重にリスクを 避けることで貢献) |
切り込み隊長 (バンバン戦うことで貢献) |
|
所属コミュニティの 潜在リスクについて |
敏感 | 鈍感 |
判断の傾向 | 思慮深い (リスクをとらない) |
即断的 (リスクをとる) |
現状について | 懐疑的・非適応的 | 信頼的・適応的 |
ハト派かタカ派か | ハト派・争いを好まない | タカ派・積極的に戦う |
刺激の弱い環境が | 快適 | 退屈 |
社交場面・ 突発的事態への対応 |
苦手 | 得意 |
エンジンのかかり | 遅い | 速い |
エネルギーの出し方 | 爆発力はないが 粘り強く継続 |
爆発的だが途切れやすい |
仕事の質 | 高い | 低い |
仕事の量 | 少ない | 多い |
時間的視野 | ロングスパン | ショートスパン |
所属コミュニティ への貢献方法 |
自己保存・間接的 | 生殖拡散・直接的 |
この部分を整理してみていて、私は生まれて初めて、自分の「争いを好まないにも関わらず、納得できないことがあると真っ先に騒ぎだし、喧嘩もいとわない」「穏やかで安定した環境が好きにも関わらず、完全にルーティーン化した作業環境にはすぐに苦痛を感じ、環境を変えようとする」といった自分の傾向について合点がいった。
つまり、私は内向型として刺激の強いことは苦痛だが、現状における潜在リスクに敏感で、常に「最善(≒コミュニティに属する者の心身の安全保障)」を満たさない要素を目ざとく見つけてはそれをなんとかしようとする。「最善」のためなら背に腹は代えられないといった感じで、嫌いな騒ぎや争い、環境変化もいとわないことがあるのだ。
今のところは以上。いやー、まことにすっきりした。いま、人生上いろんな人に売ってきたさまざまな喧嘩について、こういうことだったのかってめっちゃ納得してる。中学から大学まで、クラスメイトからは「先生の理不尽な態度に対して真っ先にキレて喧嘩しだすのいつも宇樹」って言われてた…
— 宇樹義子(そらき・よしこ) (@decinormal1) January 30, 2018
内向型はまさに、動物社会でいえば真っ先に遠くの狼の姿を見つけて騒ぎだす、群れの見張り番だ。炭鉱でいえばカナリアであり、戦争でいえば、いま攻撃すべきかすべきでないか退却すべきか慎重にアンテナを張り、頭をひねる参謀に該当するだろう。
内向型が慎重にコミュニティを見張っている間、外向型はその持ち前の即断力、行動力、爆発的パワーでもって、ばんばん前線に切り込んでいき、勝ちをもぎとってくる。内向型が慎重に孤独に自分の命とテリトリーを守り、仲間の無駄死にを防ぐことでコミュニティを維持しようとする一方で、外向型はどんどん生殖してメンバーを増やし、自分の死を厭わず勇気たっぷりに戦って敵を倒すという形でコミュニティの維持拡大をはかる。
内向型・外向型の生活形態とは
高反応型が慎重で内向的な気質を、低反応型が大胆で外交的な気質を獲得した結果、両者は以下のような生活形態を示すようになる、と私は解釈した。
内向型 | 外向型 | |
基本的志向 | 所属コミュニティの向上 | 所属コミュニティへの適応 |
好む生活スタイル | 定住型 | 移住型 |
社交場面 | 苦手 | 得意 |
自己認識 | 否定的・自身過少傾向 | 肯定的・自信過剰傾向 |
比較的多い地域 | 移民が少ない地域 (閉鎖的地理) |
移民が多い地域 (開放的地理) |
伝統的に当該の性格型が 好まれてきたのは |
儒教文化圏で | キリスト教文化圏で (特にアメリカ) |
「保守」と「革新」のねじれ
基本的に、内向型は「所属コミュニティの向上」、外向型は「所属コミュニティへの適応」を目指すようになる。
ここで面白いのが、その人の属する社会の多数派または理想像を占める性格型が内向型・外向型のどちらになるかによって、保守と革新の立場に入れ替わりが生じることだ。
簡単に考えると、内向型が慎重なため保守派、外向型が大胆なため革新派、となりそうな気もする。しかし、たとえば現代のアメリカでは外向型が多数派かつ理想像とされるため、「所属コミュニティへの所属」を志向する外向型が「アメリカ人たるもの、我々のように外交的であるべきである。こうした姿はアメリカ人の伝統的理想である」というような態度をとるようになるのだ。伝統に依拠するのはまさに保守のありかたである。
そして、「所属コミュニティの向上」を目指す内向型が「このままでは苦しむ人が出るから、いまのアメリカ社会は変わるべき」と考え、革新派の立場に立ったりする。
アメリカに生まれた、ねじれた同調圧力
外向型は活動的で声も大きく、大きな集団を引っ張っていくのもうまいので、内向型の声はいとも簡単にかき消される。こうして、アメリカにおいて「外交的なアメリカ人」の理想像はどんどん強化されていく。
「すべてのアメリカ人が個性豊かでコミュニケーション能力豊かな外向型であるべき」という規範がここに誕生する。皆が個性豊かであれ、他のあり方は認めない …これはねじれた同調圧力だ。
ちなみに、アメリカにおいて外向型が理想とされるようになったのはたったここ100年ほどのことだ。1920年代までは、意外なことにアメリカでも沈思黙考で孤独、控えめな内向型が理想とされていた。
冒頭に紹介した2冊めの本、中村あやえもん氏の「内向型の生き方戦略」では、内向型を「境地開拓型」、外向型を「社会維持型」としている。
あやえもん氏のこの分類はケイン氏の論の流れといまいち噛み合わないし、該当のタイプが多い国や地域として挙げている例がいまいちしっくりこないと思っていたが、あやえもん氏がこの、アメリカのここ100年レベルでの特異な社会文化的流れを見落として分類を行ったと考えると合点がいく。あやえもん氏の分類は、ここ100年レベルのアメリカから強い影響を受けている文化圏において、結果的に内向型・外向型がそれぞれ革新・保守としてふるまうようになった話を、人類創始レベルにまで敷衍しているから違和感があるのだ。
あやえもん氏の本は学問的観点からは多少の穴があるものの、内向型の人がいまの社会をどう生き抜いていくかを手軽に知る入門書としてはとても良いと思う。彼女のよさは、新しい概念を説明しようとするときの非常に明快な喩え話だ。ケイン氏の本のほうが内容自体ははるかに深いが、非常に学問的で読むのにも骨が折れるので、まずはイメージから内向型独自の戦い方を知って手っ取り早く鼓舞されたいという人は、あやえもん氏の本を手にとってみるのもいいだろう。
日本においてさらにねじれていく同調圧力
さて、話を戻す。ここで日本に目を移してみると、事態はさらにねじれている。日本は閉鎖的地理の島国であるため、おのずと伝統的に定住農耕型社会となった。これに加え儒教文化圏に属する日本では、アメリカよりも内向的な文化的土壌が明らかに強い。実際アメリカよりも内向型性格の割合が大きいこともデータからわかっている。
しかし、日本は戦後、その土壌の上に突然、アメリカ的文化、つまり外向型を理想とする文化を輸入した。結果、日本ではアメリカよりもずっと内向的な(≒個よりも集団の和を優先する)方法で、すべての人間は外交的であるべし、という同調圧力が展開していったのだ。
つまり、「みんなの和を乱さないために、すべての日本人は外交的であれ。外交的でないやつは日本の平安にとって害悪である」という非常に強い圧力である。
つまりこういうことだ。
「外交的な空気を乱すな。みんなのためだろう」
「外交的でない人間はみんなの迷惑だ」
「豊かな生活を送れるかどうかは自己責任だ。社会に頼るような迷惑なマネはするな。甘えるな」こうしたプレッシャーの強さは、アメリカで内向型人間が受けるそれの比ではないのでは。
— 宇樹義子(そらき・よしこ) (@decinormal1) January 30, 2018
このような現代の日本社会では、静かながら情熱を持って自分を貫こうとする内向型はまるで危険なレジスタンスかのような扱いを受けてしまう。本当につらいが、生まれ持った身体レベルの資質は変えることができない。残念ながら実質的には、外向型から圧倒されながらそうっと自分をカモフラージュして暮らすか、開き直って内向性を貫くレジスタンスとして生きるかの二択しかないように思う。
内向型よ、荒野に出よう。革新を行おう
内向型よ、荒野に出よう。
内向型は外向型のマネをする必要はない。それに内向型は、仮に外向型のマネをしたって、外向型のようにうまくやったり、外向型に勝ったりすることはできないのだ。努力でなんとかなる問題ではない。だって、そもそも身体のつくりからして違うのだから。
内向型には内向型の、外向型には外向型の役割、得意分野がある。それぞれがそれぞれの強みを存分に発揮することで、社会は今まで維持・発展してきたのだ。自分の特性を「役立たず」「人より劣っている」と感じたときは、自分のようなタイプの遺伝子セットが今まで淘汰されずに伝達されてきた理由に思いを馳せてみよう。
外向型偏重のいまの社会の雰囲気に対して、今までよりも少しだけ堂々と、革新派であることを選ぼう。内向型は内向型であり、外向型の劣化版ではない。
声の大きい人たちは、たった数十年から百年程度のことを、うまいこと「伝統」にしてしまう。私たちは持ち前の慎重さを発揮して、そうしたものに対し、誇りを持って距離を保っていよう。
革新を行うには、保守を攻撃する必要はない。ただひたすらに、自分がやるべきと信ずることに、脇目もふらず没頭すればいいだけだ。
私もこれから、自分のやるべきと信じたことをやっていく。
もちろん、不安でたまらない。だけど、内向型の人たちが無理に現行社会に合わせたりおとなしくしたりしていることは、社会にとって、世界にとっての損失なのだと、私はケイン氏の主張、そして彼女の圧倒的な量の調査データと向き合ってみてわかった。
彼女は、7年を費やしてあの本を書いた。そして、執筆中の7年間は人生でもっとも幸せな期間だったと、目を輝かせて言った。私も彼女のような時間を、私に与えようと思う。彼女の全身全霊の仕事への返歌として。