【悲しみについての覚書】悲しいことがあった ―シリーズのスタート挨拶に代えて

この記事の所要時間: 622

思うところあって、「悲しみについての覚書」というシリーズ記事を開始することにした。今回はそのスタート挨拶の代わりとなる記事だ。

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悲しいことがあった

悲しいことがあった。

ひと月ほど前、ベランダのプランターの土の上にドバトが卵を産んだ。以来私は、親鳥が卵を温めたり、孵ったヒナたちに給餌をするのを、刺激しないようにそうっと見守っていた。日に日にふくふくとして活発になっていくヒナたちを毎日何度もニヤニヤしながら確認して、そろそろ巣立ちかというある日。

パタパタと変わった羽音がするので「すわ、巣立ちの練習か」と思って見ると、成鳥が3羽、巣の周りでなにやら激しく揉めている。どうも、フリーのオスが巣とメスを奪いにきたのに対し、つがい側のオスが必死に抵抗戦を繰り広げている、ということらしかった。

騒ぎがおさまってしばらくしたとき、ベランダが静かすぎるのに気づいた。ヒナたちのいつもの甲高い鳴き声が聞こえないのだ。まさか、そんな。小走りで確認に行った。

無残な光景が広がっていた。あたり一面に羽が散乱し、2羽いたヒナのうち1羽は見当たらず、1羽は… あまりに悲惨なので詳しくは書かない。私はしばらくその場で立ち尽くしてしまった。

まず出先のオットに報告した。オットも大きなショックを受けていた。二人で毎日、きょうのヒナたちの様子について噂しあい、大事に大事にしていたのだ。巣がエアコンの室外機の近くだったため、蒸し暑いのになるべくエアコンもつけないようにして。

オットにこの光景を見せたくないと思ったので、「すでに見てしまった者として、一人で亡骸を片付けたいと思うがいいか」と確認すると、暗い声で「わかった、すまない、頼む」と。

亡骸は私が小一時間逡巡していた間にさらに無残な状態になっていた。手袋をした手で思い切ってそっと掴むと、亡骸は想像以上にずっしりと重たく、まだほんのりと温かくて、その重たさと温かさのぶんだけ私はさらに落ち込んだ。そうだった、昔飼っていたオカメインコが、これぐらいのずっしりさだったっけ。肩にとまると肩が凝ってくるぐらいの……

片付けを終えてしばらくあとに帰ってきたオットの前で、私はゴロゴロ転がり回りながら、あああ! あああ! もうすぐ巣立ちだったのに! まだあったかかった! ずっしり重かった! あああ! なんてひどい! と叫んだ。

オットもすっかり意気消沈していて、残念だったねえ、本当に、日に日に大きくなってたのに、可哀想に、あああ… あああ… という感じで、その日私たちは本当に悲しみに暮れてしまった。

けれど不思議だったのは、悲しくて悲しくてたまらなかったのに、二人で悲しみにひたひたに浸って共有する作業に、ある種の温かさと癒やしのようなものを感じたことだった。

映画「インサイド・ヘッド」では「カナシミ」が活躍する

この一件が起きたのは、映画「インサイド・ヘッド」を観た少しあとだった。インサイド・ヘッドは、ある少女の頭の中にある感情をそれぞれキャラクター化し、彼らの冒険を描く物語。ほかの感情に比べて一見して役割が不明で、ただの邪魔で不快なやつに見える感情「カナシミ」が物語のキーとなって活躍する。

私はこの映画にとても大きなインスピレーションをもらった。それで、ハトのヒナを失った悲しみに浸りながらも数日間の間、「悲しみ」についてネット検索を続けていた。悲しみとはなんなのか。ヒトだけが持つものなのか。悲しみの起源とは、存在意義とは。もしかして悲しみには、ヒトになんらかのプラスをもたらす力があるのではないか。

喪失は人に傷を与える。人生において喪失はもちろんできるだけ避けたいことだ。喪失は招かれざる事故である。だから喪失それ自体が、神からの贈り物だなどというつもりは毛頭ない。たとえば不慮の災害や事故や病気による、誰かの愛する人の死それ自体が神からの贈り物だなどと、クリスチャンである私でさえ思わない。仮に神が全知全能だとしても、偶然の災害・事故・病気まで彼がコントロールできるとは、良くも悪くも思わない(これはもしかするとクリスチャンとしては異端かもしれないので、普段は胸に仕舞っている考えだ)。

※こういう考え方について、ユダヤ教の聖職者が書いたベストセラーがある。興味のある人には読んでもらいたい。

けれど、生きるにあたって我々がこうした喪失から逃れられないというのが前提であるのだとしたら(だって、人は愛し合い、そして必ず死ぬのだから)。喪失のおりに私たちが味わう(味わわされる)悲しみはもしかすると… 私たちを喪失の傷を負ったままにさせておきたくないという、神的な何かからの恩寵である可能性はないだろうか。

神という表現が不適当ならば、DNAとか自然の神秘でもいい。ともかく、純粋な悲しみそれ自体は、もしかすると何か私たちを超えたものからのギフトなのかもしれない。雨が短期的には空を真っ黒にし、地面を冷たい水に沈めるものであっても、長期的には大地と空気の恵みとなるかのように。

市川海老蔵さんの「喪の作業」に批判が来たのを見て考えたこと

そんな折、アナウンサーであり、歌舞伎役者の市川海老蔵さんの妻である小林麻央さんが亡くなった。

マスメディアによる報道のありかたとか、がん治療に関するいろいろとか、気になる点はほかにも複数ある。ただ、私が最も引っかかったのは、彼女を失った海老蔵さんが気持ちの処理のために立て続けに更新したブログに対し、「迷惑だ」「みっともない」というような批判が来たという話だった。

誰かがその心底愛する人を亡くした悲しみ、それになんとか対処しようとする試みに対し、迷惑だとかみっともないだとかいう評価を行い、むしろ怒りをぶつける人がいるということ。私はそれに大きなショックを受けた。

個人的にもTwitterでは「生きるうえでの痛み苦しみ」について多く触れてきたけれど、そんな中でなんとなく体感してきたのは、以下のような感覚だった。

現代人の中では、「悲しむための心の体力」が枯渇しつつあるのではないか

私たちの中に、「困難な悲しみの過程を逐一経ようとする代わり、無意識にある種のライフハックやイージーなショートカットとして怒ったり攻撃しあったりする」という傾向が生まれてはいないか。そして同時に私たちは、かつて悲しみがもたらしていたかもしれない相互理解、仲間としてのつながり、愛、そんなものを失っていっているのではないか。じわじわと、音もなく。

その先にはきっと、平和はない。

だとしたらゆゆしきことだ。ここは物書きとしては何かしなければならない。

というわけで、これからしばらくの間、悲しみについて考えたこと、調べたことをどんどん短めの記事にしていくという作業を続けてみたいと思う。どんなふうに、何回続くのかはわからない。ただひたすら、悲しみに関係することを思いつくままに書き綴っていきたい。読者のみなさまには、しばらくの間おつきあいいただければ幸いである。

Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2017 Yoshiko Soraki
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