映画「きみに読む物語」を観た。これをきっかけに愛や恋について考えたことをまとめておく。
映画「きみに読む物語」を観た
夫が熱っぽく勧めていた映画を、やっと私も観た。
観ながら、私はなぜ彼が私にこの映画を強く勧めていたのかをひとつひとつ噛みしめていった。私たちの姿は、アリーとノアの姿に幾重にも重なって見えるのだ。
あらすじについては説明しない。ともかく映画を観てほしい。
ただし以下でちょくちょく映画の核心部分に触れているので、ネタバレが苦手な人は以降は観てからのお楽しみにしてほしい。
恋と愛の両立ができたら最も幸せ
映画を観ていて最も考えたのは、「恋と愛の両立」についてだった。
恋の情熱は、誰かを愛そう、愛し続けようとする意志の大きな着火剤になる。
恋に落ちるのは良くも悪くも事故のようなもので、落ちてしまうときにはどんなに抵抗しても抗えない。逆に、誰かに恋しようと思っていくら努力を重ねたとしてもできるものでもない。
そして、人を愛するのはおしなべて難しいことだ。人を愛するには、人生上の恐ろしいことを常に克服しつづけなければならないからだ。人を愛するにあたっての最大の敵は、新しい世界を前に二の足を踏む、臆病な自分自身である。
これが、恋によって引き寄せられてもそのうち別れてしまうカップル、現実的な選択の結果一生一緒にいたとしても、愛に向かう勇気の供給源(恋)がないため人生の彩りさえ失ったまま死んでいくカップル、パートナー外に恋の相手を求めるカップルがあまりに多い理由だと思う。愛と恋が一生両立するかどうかは、タイミングだとか運だとかいったものにも大きく左右される。映画にもそんなシーンがたくさん出てきた。
アリーとノアは激しい恋によって引き寄せられ、その後、途切れることのない恋の情熱を種火に、一生愛し合った。これは最も幸運で幸福なパートナーシップの姿だと私は思う。
恋は最大2年でさめるなんていうのは、少なくとも私に関しては嘘だ。私はいまだに夫に対し、ときどき顔をまっすぐに見られないほどドキドキすることがある。そして、こんなに素敵な男性が私の夫だなんて!! と改めて気づいては、次の瞬間には多幸感に押しつぶされそうになるのだ。ちなみに私たちが一緒になってから、すでに5年以上の時が経っている。
アリーとノアも互いに、このようなロマンティックな感覚を持ち続けたのだと思う。小さな種火をずっと大事に守るかのように。
愛は相手を人生の牢獄から救い出す戦い
ノアはアリーを一生かけて愛し抜くことで、まずはアリーを実家家族からの有形無形の束縛から救い出し、老いては病から救い出した。
人生を賭けた愛は、人ひとりを根底から救う大きな力を持っている。だからこそ人は、愛すことだけでなく愛されることをも恐れることがある。
たとえ窮屈で退屈でなんの喜びもないところであっても、長年慣れ親しんだところであるならば、そこから飛び出していくのは恐ろしいものだ。だからアリーも、一世一代の選択を迫られたとき、いったんはもともと生きていた「裕福なおうちのいい子ちゃん」の世界に駆け戻ってしまう。
ノアは問うた。What do you want? 君はどうしたい? 君の望みはなんだ? もしそれを君が選ぶなら、それが俺の幸せだ。What do you want?
この問いに、アリーは I have to go… 私、行かなくっちゃ… と答える。want(望み)ではなく、have to(義務)で答えるのだ。もう少しでアリーをwant で生きさせられるところだったノアは、彼女がhave to の世界に戻ろうとしていることを知って、大きく落胆する。
しかしアリーは、結局ノアのもとに戻ってくる。彼女をノアのもとに引き戻したのは、彼への恋の情熱だった。恋が彼女に、「裕福で安定した前半生のすべてを捨て、ひたすらノアから愛されノアを愛す」ことを選ぶ、ある種向こう見ずな勇気を与えたのだ。
これはいつかの私たちのようだった。
アリーが裕福な都会育ちの娘だったのに対し、ノアは知的ではあったが田舎の労働者階級育ち。
私も裕福な都会育ちの娘。夫もまぶしいほどに知的ではあるが、育ったのは都会でもなければ、裕福な家でもなかった。
夫は、ノアがアリーに何度もけしかけたように、そんな窮屈なところからは逃げてこいと何度も誘いかけた。私はhave to で答え続けた。私、いままでここにいたんだから、あと少しここにいなきゃ… それに、都会のお嬢様な自分が、夫のところでやっていけるかと考えると自信がなかった。
あるとき私は、「もし明日死ぬならば私は誰の顔を最後に見て、誰の手をとって死にたいだろうか」と考えた。思い浮かんだのは夫だった。このままうっかり死んでしまったら、私は何百年たっても成仏できそうにない… 私は夫にどうしようもなく恋していた。
それで、私は生きてきて初めて、ほかの何もかもを捨て置いてwant に従った。リュックひとつで夫のところに駆け落ちし、以来実家には一度も戻っていない。そして私はこのうえなく幸せだ。
夫への恋、夫からの愛が、私を人生の牢獄から救い出してくれた。
そして今度は、私も彼を愛し返すのだ。私には、彼を愛する責任がある。彼を愛するために自分の恐れと戦う責任がある。
愛はたぶん、人を義務(望まずとも従わせられるもの)から解放し、責任(自ら選んで受けるもの)を負うようにさせる。「I have to do it」 から「I will do it」 の生き方に変えさせるのだ。もちろんこの場合のwillは、単純未来ではなく意志のwillである。
彼に救い出され、強められた私は自分と戦いつづけ、いつか彼を人生の牢獄から救い出す勇者になるのだ。Yes, I will.
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