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東大によるオキシトシン投与実験
2015年9月4日の日経新聞によると、東大チームが、自閉症スペクトラム障害を持つ成人男性を対象に、オキシトシンを投与し続ける実験を行なったとのこと。
チームは20~40代の男性患者20人に対し、1日2回で6週間、オキシトシンをスプレーで鼻に噴霧。対人反応を検証し、磁気共鳴画像装置(MRI)で脳活動も観察した。その結果、オキシトシンを投与した後は一緒にいる人と会話したり、はにかんだりするなど反応が改善した。さらに、脳内の他人との交流に関わる部分が活発化した。
ネット上での反応を見ていると、どうも、当事者以外からはどちらかというと大ニュースとして華々しく受け止められており、当事者からの反応はイマイチのように思える。私もイマイチな反応で受け止めた者のひとりだ。
イマイチに思った理由はいくつかあるが、今回は「発達障害を『治療』する」という観点への違和感に絞って考えてみたい。
障害は「治らない」から障害なんでしょ?
上記のような報道への違和感は、友人のくらげさんもブログに書いている。
ボクは「聴覚障害」「ADHD」を持っている。「聴覚障害」に対しては人工内耳と補聴器、ADHDに対しては「コンサータ」「ストラテラ」という薬を利用して「対処」している。この「対処」によって日常生活を送り、仕事もなんとかできて日々生計を立てることができている。しかし、この状態を「障害が無いのか」というと、「それは違う」と言いたいのである。障害とは一生付き合っていくものである。だから、「障害は治る」という表現には違和感を持つ。(精神障害のような「治る」とされてるものに対してはまた別であるが)だから、「オキシトシンを吸引すれば自閉症という障害がなくなる」というような報道にはやはり疑問を感じてしまう。
自閉症や発達障害への「治療」?
発達障害者が「障害者」になるのは、社会が残り9割の多数派に合わせて作られているから
社会的障壁と障害概念についてのたとえ話
発達障害の「障害」はほぼ「社会的不利」のみなのではないか
- 機能(・形態)障害:
impairment(あるはずのものが損なわれている) - 能力障害:
disability(できるはずのものができない) - 社会的不利:
handicap(周囲と比べて不利な条件を抱えている)
これを「歩く」ことについての障害を例に説明すれば、だいたいこのような感じになる。
- 機能(・形態)障害:
生まれつき脚がない、脚を切断したなどで歩けない(形態障害)、脚はあるが、神経伝達の問題などでうまく歩けない(機能障害)といったようなこと。 - 能力障害:
上記の障害によって日常生活上の行動に制限が出ること。杖や介助なしには自分で移動できないなど。 - 社会的不利:
上記2つの障害によって、社会生活上で不利を被ること。たとえば、望むような仕事に就けない、差別を受けるなど。
※詳細はこちらのページを参考に。 講座 WHO国際障害分類試案の内容 - 障害保健福祉研究情報システム(DINF) http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r071/r071_038.html
身体障害の場合、1と2の層が目で見てわかりやすいことが多く、3つの層はそれぞれだいたい同じような厚さで存在しているように思える。
しかし、(特に高機能・軽度群の)発達障害の場合は、1と2の層はそもそも存在があやふやなのではないかと私は思っている。発達障害者が抱えている障害は、impairment(あるはずのものが損なわれている)やdisability(できるはずのものができない)とは少し違うものに感じられるのだ。
(特に高機能・軽度群の)発達障害者はたいてい、「周囲の人よりもできる部分」と「周囲の人よりもできない部分」を同時に持っている。「できるわけでもなく、できないわけでもない」のだ。
ここからが問題で、この「できるわけでもなく、できないわけでもない」という特殊さを、残りの9割の多数派と違っているからといってimpairmentやdisabilityと捉える人がまだまだ多いのだ。また、社会的インフラも、この「少し違った発達のしかたをしている人たち」に対応できていない。
結果、現在のところ発達障害者は、3層めの障害、handicapを背負って生きざるをえないのだ。
すべての障害者が「障害」から解放される日はくるのか
以上、発達障害者の障害概念について語ってみた。私の現時点での仮説は、「『障害』というのは定義的に『治らないもの』をさすが、発達障害者はいつか、『障害』を抱えずに生きられるようになるかもしれない」ということだ。
では、たとえば「脚がなくて歩けない人」はどうか。内臓的疾患や脳の損傷で寝たきりだったり、いわゆる植物状態と言われたりする人はどうか。
私は、いつか遠い将来になるかもしれないけれど、彼らが抱える「障害」を限りなくゼロに近く軽減していくことは可能なのではないかと思っている。
impairmentを医療が可能な限り治療し、disabilityを介護・福祉ができるだけ軽減していく。そしてhandicapを政治がとりはらってゆくのだ。
そもそも、医療や介護福祉、政治といったものの役目は、人間の命やQOL、そして権利をできるだけ守り支えることではなかったか。それが人間の科学技術や、賢さの最終的に目指すところではなかったか。これは私だけの偏った思いこみだろうか。
あまりにも綺麗な理想論かもしれない。けれど、こういったことを頭のどこかで信じていなければ、ちょっとつらすぎて、生きる甲斐がないなあと思ったりする。