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「生きてるだけですばらしい」の氾濫
ときどきネット上で熱く支持され、多くシェアされるのが、子どもや障害者についての「いい話」だ。たいていの反応はポジティブさにあふれている。「感動した」「泣いた」「勇気をもらった」「周囲の人からの愛に気づいた」などなど。ときには、話の中で虐待されたり死んだりしてしまった子ども、あるいは心身障害児・障害者のことに関して「天使」や「天才」とまで称揚するコメントがつくこともある。
そう、確かに、コメントをした彼ら第三者にとっては、話の中の子どもや障害者は「天使」や「天才」といった、とてもよいものに見えたのだろう。「生きてるだけですばらしい」と感じたのだろう。その感じ方自体は否定しないし、他人である私には否定する権利もない。
ただ、たまにだけれど、この弱者についての「すばらしい」という感覚を、目についた弱者やその周囲の人にまで共有させようとする人がいる。さらに悪い場合には、この感動体験共有の誘いにうっかり反発しようものなら怒り出す人も出てきたりする。私は、こういう現象に関してだけはNOを言いたい。
「生きてるだけですばらしい」は誰のものか
もちろん、弱者の中には、本人の人生上の結論として、「私は生きてるだけですばらしい」「私は天使、天才」と発言する人もいるだろう。私も何度か聞いたことがある。その感じ方それ自体については私もまったく否定しないし、ちょっとまぶしく思うぐらいだ。
ただ、こういう場合のこういった言葉は、本人が本人の(おそらくは強者よりも苦しみの多かったであろう)人生経験をもとに、自ら選んで言っていることだ。仮にこのように発言する弱者が100人いるからといって、第三者がほかの弱者に向かって「だからあなたも同じように考えて同じように言いなさい」と強制するのは、あってはならないことだと思う。
誰かの生についての評価は、基本的にその誰か本人以外にはできないものだ。誰かの「生きてるだけですばらしい」という感覚は、その誰かだけのものだ。これを他者がどうこうしようとすることは、主体性の搾取であり、精神的暴力である。
誰かが、子どもや障害者という相手に限ってこういうことをするのであれば、それは特に醜いことだ。自分の精神的満足のために相手の精神的自由を侵してもかまわない、相手を消費の対象としてもいい、と感じるのは、相手を(対等な)人間と見なしていないからこそ起きることだからだ。
弱者を消費する「感動ポルノ」
以下は非常に有名なプレゼンテーションなので、見たことがある人もいるかもしれない。
これが私の最初の気づきでした この子は障害者を感動の対象としか 見たことがないんだ と この子にとって― もちろん 彼のせいでもなく 多くの人が そんな風に考えています 大多数の人が 障害者を教師や 医者やネイリストとは 見ないものです 障害者は人として扱ってもらえません 感動を与えるための存在です
―TED ステラ・ヤングさんのプレゼンテーションより
あえて説明は加えないので、動画を見てみてほしい。日本語字幕つきだ。ヤングさんが触れているのは米国の現状だが、日本でも状況は同じか、かえって悪いぐらいだろう。
Facebookでシェアされるさまざまな「いい話」や「泣ける話」、24時間テレビ… 「やらない善よりやる偽善」というくらいで、これらには障害者・弱者の福祉に貢献している面ももちろんあると思うのだが、障害者のはしくれとしては、モヤモヤしてしかたがない。
ポジティブの強要が少数者を追い詰める
世間にはこんな口当たりのいい言葉があふれている。
「子どもは親を選んで生まれてくる」 「親には親なりの事情があったんだから許してあげなよ」 「神は乗り越えられる試練しか与えない」 「障害は個性にすぎない」 「○○障害児は天使・天才」 「生きてるだけですばらしい」 「生きていたらきっといいことがある」 「本気で祈れば叶う」……
こういった言葉を口に出すのは簡単だし、こういうことだけ考えていられればきっと人生はずっと快適なのだろうと思う。私だってそう思えるもんなら思いたいぐらいだ。
でも、上記のことがすべての人にとって本当だったら、自殺者なんてこの世にいないんじゃないだろうか。 意に反して理不尽にもままならない人生に投げ込まれてしまった弱者が苦しんでいるところに、第三者が上記のような、聞こえがいいだけで手垢のついた言葉を押しつけたところで、彼らはいっそう孤立感を強めて思いつめるだけだ。
ネガティブを否定することは弱者を否定すること
弱者の一部は、独自の深い思考から生まれた、誰かに聴いてさえもらえればずっと創造的な人生につながるかもしれなかった疑問を、周囲に気を遣うがゆえに自分の中に飲み込み、飲み込み、飲み込み続けて、あげくにポンと死んでしまうのだ。「こんなこと考える私がおかしいんだ」「この世に私の居場所はない」と絶望して。
「障害児を育てる自信がもうないって言ったらいけないの?」 「どうしても親を許せない私は間違ってるの?」 「試練を乗り越えられずに死んでいった人たちのことはどうなるの?」 「障害がただの個性なら私はどうしてこんなに苦しいの?」 「私が天才や天使ならどうしてこんなに嫌われバカにされて仕事もないの?」 「こんなに苦しいなら死んだほうがマシなのに、すばらしいって思わなきゃいけないの?」 「私の祈りは叶ったことがなかったよ?」
どうか、ネガティブを見たら反射的にポジティブでフタをしようとするのではなくて、「そう、あなたはそう思うんだね」と、一度でいいからそのままに受容してはくれないだろうか。なにも、一緒に密閉した車の中で練炭を焚いて死んでくれと言ってるわけではないのだから。自分のいうことを、少なくとも否定しないでいてくれる人がひとりでもいる、それだけで、この世にあと少しぐらいとどまっていてみようと思う人はいるはずだと思う。
「生きてる『ことは』すばらしい」と言ってほしい
ところで私自身のことを言えば、「生きてる『ことは』すばらしい」とは考えている。
生きてる「だけで」すばらしい、と、生きてる「ことは」すばらしい、は、似ているがまったく違うものだ。前者は生の全肯定であり、後者は生の部分肯定である。
私は、「すばらしくない人生」はありうると思っている。しかし、生きてる「だけで」すばらしい、という言葉は、「すばらしくない人生」の存在を否定する。生きてる=すばらしい、と完全にイコールで結んでいるからだ。だから私は、生きてる「だけで」すばらしい、という言葉はどうしても好きになれない。
妥協点として、生きてる「ことは」すばらしい、と言ってくれるなら嬉しいなあ、と思う。私は生きることの大半は苦しみだと思っているけれど、すばらしい瞬間を実感することはたくさんあるから、「少なくとも私にとっては」、生きてることはすばらしい。
ほかの人の人生については知らないし、知る権利もない。生きてることはすばらしい、に同意できない人もたくさんいるだろう。ただ、私を弱者のひとつのサンプルとして、どうしたら弱者を追い詰めるリスクを減らせるかを考える材料にすることはできると思う。