『中動態の世界』とAAの『12のステップ』を読む ―不自由への無条件降伏によって自由になる

この記事の所要時間: 2657

各種の依存・嗜癖傾向を自覚する私。哲学者・國分功一郎氏の『中動態の世界』と、AAの『12のステップと12の伝統』を合わせて読んだ。感想・レビューを書き留めておく。

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「中動態の世界」との出会い

私は発達障害者でコミュニケーション障害があるので、現代思想2017年8月号特集「『コミュ障』の時代」を真剣に読み込んだ。

とても刺激的な対談や鼎談が盛りだくさんだったのだが、そこで國分功一郎氏という哲学者とその最新著書『中動態の世界』について知るに至った。

Amazonでのレビューも高く、Twitterでも周囲の人々が興奮気味に口々に「よかった」と言うので、これは読んでみなければと購入したのだった。

『中動態の世界』感想・レビュー

過去、世界には能動態でも受動態でもない「中動態」という態が存在した。長い歴史の中で「する」でも「される」でもない行為を表す中動態が失われるにしたがって、人々の「意志」や「責任」についての認識は少しずつゆがめられていった。中動態に関して考えることは、我々のこれからの自由や不自由についてとても重要な位置を占めているのではないか… そんな問いで始まるのが、『中動態の世界』だ。

言語学的な細かい分析は私には難しすぎたが、中動態が指し示してくれる、我々のより原始に近い世界観は私を魅了した。『中動態の世界』は國分氏がある依存症当事者から得たヒントをきっかけとして始まった本だそうなのだが、私が生きているうえで感じている「どうにも不自由な感じ」「自分がままならない感じ」を打開していくための希望の種をくれたような気がする。

私たちは不自由だ

われわれはしばしば行為を「意志の実現」と見なす。しかし…短い検討だけでも、そのような見方が少しも妥当ではないことが分かる。行為はむしろ…諸条件のもとでの諸関係の実現と見なされるべきであろう
― 『中動態の世界』國分功一郎

國分氏によればこうだ。誰かの行為に完全な(自由)意志があるとするためには、「行為の始まり」を厳密に定める必要がある。しかし、突き詰めて考えると私たちは行為するにあたり、まったく周囲の諸条件・諸関係と独立して行為するということはありえない。たとえば喉元に銃を突きつけられて仕方なく財布を差し出す場合、その行為は「する」にも「される」にも分類されない、中動態的行為である。

私からもう少し極端でない例を挙げてみれば、たとえば私がある曇った週末、傘を持って玄関を出るという行為をしたとする。その行為の「始まり」を非常に厳密に辿っていった場合、最終的には辿れなくなるというのが中動態的な世界の捉え方だ。

三日前、天気予報が「この週末は雨になる」と言っていた。今日は明け方からなんだかちょっと鼻がぐずぐずする。幼稚園のときに、親の制止を聞かずに雨に当たって遊び、風邪をひいて怒られたことがある。気温も最近にしてはかなり低いようだ…

このように、「ある週末に傘を持って玄関を出る」という行為ひとつとっても、私たちは自分ひとりではできないのだ。私たちの意志は私たちが思っているよりもはるかに不自由だ。

不自由であることによる救い

なんということか、私たちはまったくもって不自由だったのである。目からウロコだが、同時に「そりゃそうだよね」という感覚もあった。そして私は、何かに包まれているような深い安らぎのようなものを感じたのだ。

読み進めるにあたって、自分の感覚に納得がいった。國分氏によれば、中動態の世界の追究の先にあるものは、いささか極端にも思える「神すなわち自然」「この世で唯一の実体は神であり、ほかのものは全て神の形状変化でしかない」というスピノザ的感覚だ。國分氏は、私たちの行為に世界の始まりから影響しつづけている諸条件とはつまりスピノザ的な「神(すなわち自然)」だ、というようなことを述べるのである。

私は、この世界観は禅僧ティク・ナット・ハン氏が提唱している「インタービーイング(相互依存、相互存在、相互共存などと訳される)」の感覚とそっくりだと思った。ティク・ナット・ハン氏は人々に対し、瞑想の中でこのインタービーイングについてイメージすれば心に平安が訪れると説いている。

インタービーイングとは以下のようなことだ。

雨は雨だけでは存在しない。その実体は水であり、この世にある雨も雲も霧も木の葉の水滴も川も海も、水の連綿とした形状変化にすぎない。この世の存在すべてはそのようにできている。そういった意味で、私たちも(確固として独立した我などないという意味で)無我であり、周囲のすべてと相互に依存しながら存在している。あなたがいるから私がいる。

私たちは、好む好まないに関わらず、意志するしないに関わらず、世界の始まりから世界=神のもとに不自由であり、また同時に、世界の始まりから世界=神と一体となって存在していたのだ。

これは少なくとも私にとっては大きな救いとなる感覚であった。カトリックのクリスチャンである私だが、ときに言われる「神は私たちが生まれる前から私たちを愛し救っている」という言葉の意味を、初めて腑に落ちる形で理解することができたかもしれない。

※インタービーイングについては以下の書籍を参考に。別の機会に以下のレビュー記事も書ければと思っている。

「不自由に気づく」ことで自由になる

結び近くの文章は、希望にわくわくと打ち震えるような気持ちで読んだ。

(われわれが)自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合にどのように変状するのか? その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩にほかならない
…われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。
…われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし不可能でもない。たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。
― 『中動態の世界』國分功一郎

私たちは、世界が中動態でできていること、私たちが想像以上に不自由であることに気づき、その不自由を見つめつづけることによって逆説的に自由になってゆけるのだ。

そう思ったとき、以前からチラチラと発達障害当事者研究の界隈で目にしていた「12のステップ」のことが思い出された。

「12のステップ」とは、アルコール依存症者の自助グループであるアルコホリック・アノニマス(以下AA)がその集合知をもとに築き上げた、回復のための不可欠なステップをリストにしたものだ。リストは依存症者が自分の自由意志への「信仰」を投げ捨て、代わりに神的なるものの意志にまかせる内容から始まるので、『中動態の世界』で示唆されたことを私が現実に落とし込むためには読みこむ必要があると思った。ここで改めて、『中動態の世界』が依存症に対する考察をきっかけに書かれた本であることを思い出し、深く納得した次第だ。

AAの『12のステップと12の伝統』感想・レビュー

AAの書籍『12のステップと12の伝統』はこちら。

AAのメンバーが回復のために日々実践していくべき「12のステップ」と、AAグループを維持していくための「12の伝統」のリスト、またそれらについての詳しい解説やメンバーの体験の紹介がまとまっている。

AAは現在世界中に散らばる各種依存症者のためのアノニマスグループの原型を成しており、たとえば「アルコール」の部分を「ギャンブル」などと置き換えるような形で、あらゆるアノニマスグループで現在も実際にテキストとして使われているそうだ。

読み進めるにしたがって、依存症は対岸の火事のようなものではなく、私自身の問題であると痛感した。特定の依存対象への依存行為自体は依存症の本態ではなく、根本問題は「霊的につながるべき対象とつながることができていない」ことにある、ということも。

個人的には、特定の深刻な依存症を抱えているわけではないが人生や人間関係においてなぜか同じようなトラブルや問題を繰り返してしまい、自分では手に負えないと感じている人にも広く勧めたい。私自身がそういう人間なのだが、この『12のステップ』は私がそんな生き方を変えてゆくための大きな力をくれたと思う。

『12のステップ』は無数の「自分がままならない」ことで苦しむ当事者たちの経験と叡智の塊だ。だからこの本は、大なり小なり病んでいる現代の私たちがどういう傾向を持っていて、どんなところで引っかかり、どんな疑問を持つのかを誰よりも知っている。かゆいところに手が届くとはこういうことだと思う。今まで自分がこの本のことを他人事だと思っていたことを後悔したいような気持ちになる。

※以下、引用部分は特段の表記がない限り全て 『12のステップと12の伝統』 Inc. Alcoholics Anonymous World Services より。
※「12の伝統」部分については未読なため、レビューを行っていない。

AAの「12のステップ」とは

12のステップのリスト全文をここに掲載するのは転載に当たりうると判断したので、こちらを参照いただきたい。

AA 12のステップ | AA日本ゼネラルサービス – AA JapanGeneralService –

意志への「信仰」を捨てる

12のステップの最初で、私たちは自分の意志の力の無力に徹底的に向かい合う。

意志の力を誤用してきたことに気づく

信仰の量ではなく、その質に関係がある。これは私たちの盲点だった。

…私たちの全ての問題が、意志の力の誤用だった。私たちに対する神の意向に合わせようとはしないで、自分の意志によって問題を解決しようと努めていたのだ。

依存症を乗り越えるために必死に努力した、神に祈ったとか言うときに、私たちには根本的に間違った方法でアプローチしている場合がある。これは、『中動態の世界』の冒頭にある架空の会話で、ある依存症患者が「しゃべっている言葉が違う」と表現したように、人によって言葉の定義や連想するイメージが違うが場合があるのと同じことだと思う。

こうした用語をめぐる、人と人の間の根本的な認識のズレについて深く掘り下げているのが、上でも紹介した『<仏教3.0>を哲学する』だ。

詳細は別記事に譲るが、『<仏教3.0>を哲学する』で語られていたのも、仏教がブッダの生きている時代から伝わってくるに従って、自我や意志というものについての理解がいつの間にかズレていってしまった可能性がある、長年仏教の瞑想をやっていてもいまいち成果が実感できなかったり、何か違和感があったりするのはそういう理由ではないか、という話だった。

祈りの中にさえ間違いがある

祈ることも、方法を間違えれば依存症やその根本を成している自分の性格傾向を強化していく結果にしかならないようだ。

…私たちは「神の意志が行われますように」と祈るかわりにいつも「私の望みをかなえて下さい」と言っていた。

… 誘惑は、その人にとっての特定の問題について特定の解決を願うこと、また、誰かが助けを必要としていると勝手に判断し、その人を助ける力を願うことだ。

…底には、自分はその人に対する神の意志を知っているのだという想定がある。つまり、私たちの中には、熱心な祈りと並んで、いくぶんかの思い上がりやうぬぼれが潜んでいるということだ。

このような間違えた祈り方をしないために、『12のステップ』では「神よ、もしそれがあなたの意志であるなら」という一言を付け加えることを勧めている。

不自由によってこそ自由になる

「自立とは依存先を増やすこと」

ハイヤー・パワーへの依存が、むしろ私たちを自立させる
…依存をすることによって、私たちは一人一人が一層自由になっていることに気づく。自由であるばかりか、より快適で安全である。

小児科医で当事者研究者である熊谷晋一郎氏は「自立とは依存先を増やすこと」ということをおっしゃっているが、それと通ずる感覚だと思った。

私たちは無力で不完全で、頼るものなしには生きてはいけない。それをつくづく認めたうえで、頼る対象をできるだけヘルシーなものにしていく、また頼り方をできるだけヘルシーにしていく試みが自立なのではないか。その場合、「いくら頼っても壊れないし、こちらの心身も壊れない対象」、すなわち「『全能の神』的な何か」に頼るのは、ひとつのとてもよい選択なのかもしれない。

圧倒的不自由への気づきが我々を自由にする

『中動態の世界』でも、自らの圧倒的不自由への気づきが少しずつ私たちを自由にしていくということが語られていた。12のステップで「自分の無力を認める」「(自分なりに理解した)神にゆだねる」ことが重視されるのは、きっとそういうことなのだろう。

私たちの「意志」を不自由にする何かを、たぶん哲学では「因果関係」と言い、臨床心理学や精神医学では「トラウマ」や「スキーマ」と言う。スピリチュアルの文脈では「ブロック」と言い、社会学では「時代・社会背景」とか「コホート」と言うのだろう。もっとたくさんの言い換えだってあるかもしれない。

私たちは圧倒的に不自由で、無力である。その認識へと踏み出すのには大きな勇気がいるが、その先には想像以上の安らぎが待っているように思う。

中動態的な言い方でいえば、私たちの意志など、圧倒的な「世界=神」の力の前にはあってもないようなものだ。私たちは「世界=神」に左右されて行為する。であるならば、私たちが生きてきた間に身につけてきてしまった「罪」を、私たちは背負い込む必要などなく、単に「世界=神」にゆだねればいいのではないだろうか。

私は初めて社会学の概念に触れたときに、すべて自分のせいだと思っていたさまざまな性格傾向が、実は想像以上に大きな社会的背景に影響を受けて成り立っていたことを知って、とても救われた思いがしたものだ。

神から来たものは、神に返しなさい
―聖書

「本能の充足」は我々の人生の第一目的ではない

高慢、無明 ―「本能が満たされない恐れ」に浸される

「自分は周囲から独立した自由な存在であり、ものごとは自分の欲求のままになってしかるべきだ」とする考え方を、『12のステップ』ではキリスト教の七つの大罪のひとつと照らし合わせて「高慢(傲慢とも)」と呼んでいる。

また『12のステップ』では、七つの大罪(高慢、貪欲、好色、怒り、飽食、嫉妬、怠惰)はすべて高慢から始まり、高慢はほかの罪の根っこであるとする。

高慢はたぶん、自我についての認識の誤りだ。この世が本来的には中動態的なものであるとするなら、確固とした独立した「私」があるという考えも、それに完全なる自由意志があるとする考えも、よって人生の第一目的は自分の欲求のより完全な充足だとする考えも、すべて誤っている。

この誤った自我認識のもとに生きていると、私たちは「本能が満たされない恐れ」にいちいち振り回され、次々と誤った行動(罪)を起こすようになる。(以下引用部分、改行とカッコ内は宇樹による補足)

その恐れは次に多くの性格上の欠点を生み出す。
本能が満たされないことへの理由なき恐れが私たちをかり立て、他人の持ちものを欲しがり、セックスと権力を渇望する(貪欲、好色)。
本能的欲望がおびやかされると怒り(怒り)、
他人の望みだけがかなっているように見える時には嫉妬する(嫉妬)。
決して満たされないという恐れで、必要以上に飲み食いし、ありとあらゆるものを取り込んでしまう。(飽食)
そして仕事の見通しに深刻な不安があっても、本当は働くのがいやなため、ぶらぶらしている。のらりくらりと暮らし、ぐずぐずしていて、よい仕事も全力でやろうという気はない。(怠惰)
これらの恐れは、私たちが築こうとしている人生の土台をくまなく食い荒らす白アリである。

ここで、ティク・ナット・ハン禅師の『怖れ』という本のこと、また上で何度も紹介している『<仏教3.0>を哲学する』を思い出した。

ティク・ナット・ハン氏は『怖れ』の中で、瞑想によってインタービーイングの感覚をイメージし、確固たる独立した我など存在しないという意味での無我を理解することで、孤立した子どものような怖れの感覚から離れ、煩悩に左右されない平静な心(すなわち涅槃)を保っていられるとした。

『<仏教3.0>を哲学する』では、自我についての認識の誤りを「無明(むみょう)」とし、「煩悩そのものではなく、煩悩の根っこ」としている。

私には、キリスト教的な世界観をベースとした『12のステップ』で語られていることと、現代の仏教の実践者たちが語っていることは、みごとな相似形を成しているように思える。もとは比較的熱心な仏教の信徒で現在はカトリック信徒である私にとって、しみじみと染み込む話である。

神に与えられた本能は誤用されてきた

健康な人間ならほとんど誰もが、人生のある時期に、異性の伴侶を見つけたいという強い欲求をもつ。そして霊的にも、精神的にも、感情的にも、また肉体的にも、できるだけ充実した結びつきを求める。この強力な衝動は、豊かな人間形成に向かう源泉であり、人生に深い影響をおよぼす創造的なエネルギーである。神は私たちをそのようにつくられた。問題は、この神の贈り物を、私たちが無知ととらわれと頑固なわがままのために、どれほど誤用し、自分の破滅を招いたかということだ。

依存症からの回復を目指すためのメソッドを描いた本に、「神は私たちに本能を与えた、私たちは本能を持つように作られている、それは自然なことだ」ということが書かれているということに、私は深い癒やしのようなものを感じた。

依存症からの回復などというと、いかにも「欲望を捨てなさい、それはいけないものなのです」などと叱られそうではないか。なのに『12のステップ』はそうではない。本能や欲求、欲望を自然なもの、むしろ神の恵みであるとしたうえで、その誤用のみを問題とするのだ。

本能はなぜ誤用されてきたのか

本能はなぜ誤用されてきたのだろうか。おこがましくも想像するのは、ルネサンス、産業革命を経て資本主義が台頭していく過程で、同時に中動態的感覚(≒世界は私たちの思うままにはならない)も失われていったことにあるのではないかということだ。

『中動態の世界』には、現在のような法は中動態が失われはじめてから完成したものであり、法は人間の深い部分をカバーしていない、疎外している、というような論点もある。社会学の分野でたまに言われる「法化」という現象のことを思い出した。法は本来、人(の権利)を守るために自然発生したルールから形成されたものだ。しかし現代では法は、逆に人を脅かすために使われる場合もある。また、「違法でさえなければ何をしてもいい」という感覚も出てきている。

中世まではキリスト教圏では「神が見ている」、日本で言えば「お天道さまが見ている」という感覚があり、それが圧倒的な規範を作るとともに、それに反してしまった者を徹底的に温かく包み込むという、「良くも悪くも神に支配された」世界観が生きていたのではと思う。

人は神から自由になって以前より幸福になったようでいて、実は単に、もともとの不自由からは解放されないまま、神から与えられていた救いや恵みをポイとゴミ箱に捨ててしまっただけなのかもしれない。

動物ではなく人間として生まれたことの意義

私たちが本能・欲求・欲望のより完全な充足を人生の第一目的とするなら、わざわざ人間として自我や精神を与えられて生まれてきたことの根源的意味を失ってしまうような気がする。

ならば、動物としての本能を与えられたうえで、それを自我や精神の成熟によって動物とは違ったものに昇華してゆく作業が、人間には求められているのではないだろうか。

精神的動揺から自由になる

12ステップの実践で得られる精神的平安

…失敗…成功… 貧しさ、病気、孤独、死別…勇気と落ち着きを持って受け入れることができるだろうか。…永続的な充足感が得られたのだからと、毅然とした態度で納得することができるだろうか。
…AAは、「そうだ、それらはすべて可能だ」と答える。なぜなら、AAの十二のステップを実践し続けようと努力をしている人たちにかかれば、退屈も、苦しみも、また不幸さえも、よいものに変えられてゆくからだ。

依存症という病の本態は、「精神的動揺を自分ではうまくさばけない」というところにあるような気がする。同じストレッサーがあったときに、依存対象に手を出してしまう人と、手を出さないで済む人がいるとして、両者の違いはおそらく精神的平安のあるなしだろうと思う。

私自身も、人生を徹底的に破壊する(いわゆる「底つき」)ような状態にまでは陥ったことがないものの、それはそれはさまざまな嗜癖や依存傾向に陥ったことがある。軽い過食や拒食、チョコレートへの依存、日焼けへの依存、自傷癖(かきむしり、リストカット)、共依存やDVの加害者側被害者側両方、ワーカホリック、性的世界への遁走などなど。私も立派なひとりの依存症者である。

思い返せば、寂しさや悲しみや怒り、虚しさや自己否定の感覚をうまくさばけなかったとき、私はいろいろなものに依存してきた。ならば、人生上のあらゆるままならないことに対して平静を保っていられる精神を手に入れられれば、私は依存対象に依存せずにいられるようになるということではないだろうか。

『12のステップ』では、心の平安を手に入れることは、ステップの実践を続けることで可能だと言っている。つまり、(自分なりに理解した)神に無条件降伏して自分の意志を投げ出し、すべてをゆだねることを日々、徹底的に継続することによって。

ここで、有名な祈りをひとつ思い出した。「私の願い ―ある兵士の祈り」と呼ばれる詩だ。

クレド ある兵士の祈り | Seeker of the Heart
https://goo.gl/iDTXyv

与えられたのは弱さや貧困、病気などなど、みじめなものばかり。自分の意志で欲しいと願ったものは何一つ与えられなかったが、その代わりに比類ない恵みを与えられた、という詩。キリスト教界隈でとても人気が高く、祈るための綺麗なカードなども売っている。

私は以前はこの祈りに「やせ我慢しおって、本心からではないに違いない」のような反発心を覚えていたが、今はこの詩を書いた兵士の気持ちを理解できるような気がする。彼は『12のステップ』で語られているのと同じような霊的成長を経て、あの詩を書きつけるに至ったのだろう。

怒りを持っていいのは、それをうまくさばける人たちだけ

ここのくだりも、はっとさせられたところのひとつだ。

私たちが平静さをかきみだされる時というのは、その原因がなんであれ、自分の側に何か誤りがある、というのが霊的な原則である。誰かに傷つけられ、心を痛めたとしても、やはり私たちが間違っている。
…たとえその怒りが正当化されたとしても、それは、その怒りを自分でうまくさばける人たちのものであることを、私たちは知った。

私自身、相手が絶対に間違っている! なぜならばこうこうこういう理由からだ! と、怒る正当な理由を見つけたことを免罪符のようにして、周囲に怒り散らすことがよくあった。私のそうした怒りはかなり暴力的なもので、ときに周囲を傷つけ疲弊させ、私自身をも傷つけ疲弊させる悲惨なありさまを呈していた。

私はオットにひどく噛みつき、ひととおりドンパチやったあとに、「どうしてこんなことをしてしまうんだろう」と後悔することを何度も繰り返していた。このままではいつか私たちの間はダメになるのではないか、いや、私がダメにしてしまうのでは、といつも不安で、どんなきっかけで怒りによって暴走するかわからない自分がとても怖かった。

引用の前半部分は一見あまりに厳しい内容で、一瞬反発を覚えた。とてもひどいことをされたために私が動揺したとしてもそれは自分が悪いだなんて! しかし後半の「たとえその怒りが正当化されたとしても」の一文が、なるほどと納得させてくれた。たとえ正当な怒りであっても、それを振り回して、または自分が振り回されて皆を傷つけてしまうのであれば、それは私が間違っているのだ。

きっと、怒りんぼも依存症者のひとつで、彼らは「怒り」という感情に依存している。彼らは、アルコール依存症者が自分はアルコールなしには生きていけないと信じているのと同じように、怒りんぼも、自分は怒りなしには生きていけないと信じているのだ。

私たちはひとりではない

そしてやっと私たちも理解できるようになる。私たちを含めて人間は誰でも、たびたび間違いを犯すし、ある程度までは感情的に病んでいるのだということを。そこではじめて私たちも真の寛容さに気づき、仲間に対する本当の愛が分かってくるのだ。私たちと同じように成長の痛みに苦しんでいる人たちのことで傷ついたり、腹を立てたりするのは意味のないことが、歩みを進めるにつれてはっきりしてくる。

これは「自分の不完全さ不自由さととことん向き合うことで初めて、不完全で不自由なのは他者も同じだということに気づく」という言い換え方もできるし、マインドフルネスの系統にある「視点を地球が見渡せるところまで引いていって、『不完全な人類の中のひとりである自分』というイメージを得る」瞑想に似ているという言い方もできるだろう。

いずれにしろ、自分は不完全で間違う存在だということに無条件降伏したとき、不思議なことに私たちは「自分はひとりではない」という温かさに包まれ、自分も他者をも仲間として愛せるようになる、そういうことなのだろう。

騙されたと思って実践すれば、愛や救いがついてくる

面白いのが、「どれだけ自分にとってこそばゆく偽善めいた行いに見えても、とりあえず12ステップの勧めることを実践してみよ。そうすれば愛や救いはあとからついてくる」というくだりだ。まるで宗教の勧誘のようで、ここに飛び込むことは現代的な個人の感覚からすれば非常に危険な行為であり、狂気の沙汰に見えるかもしれない。私も実は今でも少し警戒している。けれど大事なのは、そのように抵抗を覚えながらも騙されたと思って実践してみた多くの依存症者たちが回復していっているという事実である。

努力することに第一歩を踏み出すのは気がすすまないものだ。だが、とにかくやってみるしかない。

…まず、愛する人に理不尽な要求をするのをやめる努力をしてみる。これまでまったく無関心だった相手に優しさを表す。嫌いな人には、たとえ意識的であっても理解し、手助けをし、正当に評価し、好意をもって接することから始める。

『愛するということ』において愛について「勇気の決断でえいやと飛び込み、実践するものである」というような説明をしたのは、『自由からの逃走』『悪について』などで有名な社会心理学者・精神分析学者のエーリッヒ・フロムである。非常に似通ったことが、精神科医のスコット・ペックによる『愛すること、生きること』でも書かれている。

とりあえず実践してみることが大事なのは、祈りについてでもあるらしい。

(祈りなどなんの役にも立たないということを考えたとき)思い出すのは、ボトルから現実が生まれるという空想を、私たちがどれだけ大事にしていたかということだ。…本当の問題は…(私たちには現実に対して)正しい想像力を向ける能力が全面的に欠けていたことにあった。

祈りなどといったものが、酒の入ったボトル(依存対象)のように自分を救ってくれるなどとは到底思えない、祈りなんてなんの役にも立たない、くだらない… そういった考えを疑ってみて、まずは祈ってみる。依存にまみれたみっともない自分が人格者よろしく頭を垂れて祈ることなど… と斜に構えたい気持ちになっても、まずは祈ってみる。そうしてみんな回復してきた、だから勇気を持ってすべて(あなたなりの)神にゆだねなさい、そう『12ステップ』は訴えるのだ。

不自由への無条件降伏を

『中動態の世界』と『12ステップ』が共通して示唆しているのは、たぶんこういうことだ。私たちは望む望まざるに関わらず、良くも悪くも神的なるものに支配されており、それによって不自由である。しかし私たちはまた、その不自由に気づいて無条件降伏することによって、奇跡的な自由と救いを得る。

いま、私たちの精神世界は大きな転換点を迎えているように思う。大きな歴史の流れの中で溜められてきた、「私」や救い、人生の意義、神についての認識の「たわみ」が、音もなく私たちの表面意識の下で限界点を迎えつつあるような気がする。今にも大放出が起こりそうな予感がする。あたかも、抑圧されたエネルギーの蓄積に耐えられなくなったプレートがポンと跳ね返って大地震が起こるように。

この大きな潮流の中に産み落とされ、揉まれることは苦しい。それでもその中の一員として私が生かされていることは、今はむしろ大きな喜びである。

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