あなたは、回復不能に陥ったパートナーを殺すか?

この記事の所要時間: 92
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愛や尊厳死、安楽死の要素を含む難しいアンケートをとってみた

Twitterでアンケート機能が導入された。「究極の質問」的な使い方をしている人や、哲学的な命題を立てるのに使っている人もいたので、私も触発されて何かやってみようと思い立ち、以下のようなアンケートをとった。

結果は、「殺さない」が「殺す」の約1.27倍。アンケート開始当初は「殺さない」が圧倒的優勢だったが、投票数が増えるに従って「殺す」が微増し、とても興味深い結果になった。

「究極の質問」の文面を適切に組むのは難しい

学んだ1つめのことは、究極の質問の文面を適切に組むのはなかなかに難しい、ということ。

これは私の書き方が悪かったのだが、「現代の医学で回復の見込みがなくなった」状態というのは、私としては「(長期にわたって)意識がなく、意思疎通ができず(できないように見え)、実質的に延命治療しか治療方法が残されていない、いわゆる植物状態に陥っている」という状況を想定していた。

票が入り始めてしばらくして不備に気づいたのだが、せっかく投票してくれた方の投票をムゲにするのが忍びなく、別ツイートで補足を行ない、そのままアンケートを続行した。

「いまの世界で」という表現の意図

この表現にはいくつかの意図があった。

  • 安楽死が法律で認められていない世界、という前提を行なう

    いまの世界で誰かを殺せば、その目的が安楽死であろうとなかろうと、基本的に殺人罪で刑事事件として立件される。1件めであれば情状酌量で執行猶予がつくだろうが、社会的には相当な重荷を負うことになる。おそらく仕事も失うし、住処も引っ越して、以降誰にも知られないところでひっそりと生きざるをえなくなるかもしれない。

  • 意識がないと誰もが思っていたのに実際には意識があったとか、長期の昏睡を経て回復した、といったレアケース、また医療の進歩を待っての冷凍保存処置などを前提する

    現在の医学レベルでは、ずっと昏睡状態と思われていた人に実は数十年にわたって意識があり、周囲のことを認識していた、といったようなケースがたまに起こる。最近の研究では、想定されていたよりも多くの「昏睡状態」の患者が、外界に反応できないだけであって意識はある兆候を示していた可能性がある、ということも言われている。

    「潜水服は蝶の夢を見る」という小説や映画では、意識は回復し音は聞こえるが言葉を発することができないという、「閉じ込め症候群(Locked-In Syndrome/ロックイン・シンドローム)」が扱われている。

    現在の医療レベルがもっともっと向上すれば、いま「意識なし」「意思疎通不能」「回復の見込みなし」と言われている人たちも「生きられる」可能性がある。また、いまはごく一部の裕福な人たちにしか手の届かない、「遺体」の冷凍保存なども、はるかに技術が向上して安価に普及すればもっと普通のものになっていくかもしれない。

尊厳死・安楽死における「本人の意思尊重」についての問い

ほかに練り込みたかったのは、「本人の意思尊重」についてのもろもろだ。

質問には、「本人はかねてより、もし自分が倒れて回復の見込みがなくなったら殺してくれと頼んでいた」という文面を入れてある。これは、「本人が健康で元気なときの尊厳死・安楽死についての意思表示」のつもりで入れた。

尊厳死・安楽死についてよく問題になることのひとつが、「本人の意思」の問題。

  • 本人の健康状況が大きく変わると、死についての本人の意思が変わることがよくある

    なんでも、元気なときは「周囲に迷惑をかけてまで無為に生き延びたくない。そんな状況になったら殺してくれ」なんて格好のいいことを言っていても、いざ弱ってきたら生きたい気持ちが勝り、いわゆる命乞いをする人もかなりいるそうなのだ。

  • そもそも、何をどこまで「本人の意思」として良いのかという問題

    私はこれが一番のネックだと思っている。誰かが「こうしたい」とはっきり意思表示したとき、その意思は、突き詰めたときにどこまで純粋に本人の意思なのだろうか? 周囲の状況が大きく違っていたら、本人の言うことも反対になった、なんてことが起こり得ないと、誰が断言できるのだろうか?

    これは、芸能活動やアイドル活動をする子どもについてもたまに言われることなのだけれど、本人自身さえ「自分は自分の意志でこの活動を選び、楽しんでこれをやっている」と思っているその活動が、周囲からの誘導やプレッシャーに無意識に左右され、本人の純粋な自由意思が抑圧されているリスクは常に念頭に置いておかなければならない。

    子どもが弱者であるように、病気で働けない者、死にゆく者、医療サービスやそれにかかるお金を必要とする者も弱者である。

    「周囲に迷惑をかけるぐらいなら潔く死にたい」、いまの世界でそう語っている人がいたとする。この人がもしも、いまよりはるかに高いレベルの医療サービスが普及しており、かつ経済的負担がゼロ、そして介護などの負担を社会がうまく背負い、誰も搾取されずにうまく回っていく世界、また弱者への差別がいっさいない世界に生きていたとしたら、果たしてこのとおりのことを言っていただろうか。

「究極の愛」とはなんなのか

実をいうと私は、究極の愛というのは、「相手をどうしても殺さざるをえない状況に陥った場合、自分のためよりも相手のためを思って相手を殺す、そして自分は生きる」ことだと考えている。

相手を(執着でなく)愛ゆえに自分の手で殺し、その手ごたえと喪失を抱え、また殺人者として有罪判決を受けて社会的に死んででも生きていく… ちょっと歪んでいるかもしれないけれど、それが究極の愛なのではと私は思っているのだ。

私がいちばん最近に目にしたケースは、京都市伏見区の、介護・困窮のすえ認知症の母を殺害した息子の話。

母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。

片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。

生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。

介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、06年1月31日に心中を決意した。

「最後の親孝行に」

片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で

「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は

「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。

片桐被告が 「すまんな」と謝ると、母は

「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は

「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。

この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。

母の首を絞めて殺し、 自分も包丁で首を切って自殺を図った。

冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、 眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。

裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。

殺害時の2人のやりとりや、

「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」

という供述も紹介。

目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

温情判決(京都介護殺人事件) ~もう生きられへん。此処で終わりやで~ | 感動まとめサイト – 「kokoro堂」 より

これを完全な美談にするつもりは毛頭ないし、こんなに健全に愛し合っている親子をこれほど痛ましい心中に追い込んだ社会状況を私は憎む。ただ、私はこの親子の愛を「まぶしい」と思う。

私が母を殺さなかったのは、彼女を愛していなかったから

私は、長年にわたって実母に殺意を抱いていた。私と母の関係は歪んでいて、私は少女時代から中年手前までを、母が異常に私に執着する小さな世界の中で生きた。逃げ出そうにも私には逃げ出す力がなく、あがき、苦しむなか母の異常さは悪化。あるときついに、半狂乱になった母に私が殺されるか、それとも私が母を殺すかという状況まで追い込まれ、結局、身ひとつで実家を逃げ出したのだった。

詳細はこちらの記事に書いている。

[ナラティブその2]実母に殺意を抱いた記憶
http://decinormal.com/2015/09/10/daughter_of_mother/

私は母を愛していなかった。それどころか憎んでいた。母も私を愛してなどいなかった。私が母のもとにいたのは「生きるため」であり(発達障害の発見が遅れた私には当時、生活力がなかった)、母が私を離さなかったのは純粋に執着のためであった。

人を殺すのなど、本気になれば簡単だ。突然襲いかかって、そのへんの丈夫なヒモかなにかでぎゅうぎゅう首を締めつづければいいのだ。

私は、母を憎むと同時に心底可哀想に思っていた。いっそ、彼女の執着している娘のこの手で殺してやったほうが彼女は幸せなのかもしれないと何度も思った。

でも、私は彼女のためにそんな重荷を背負いたくはなかった。嫌悪し続けた母の首を締めて殺した感触、死んでいく彼女の表情などを手と目に焼きつけた状態で、刑事犯として罪を背負い、その後いっさいの社会的生命を絶たれることなどまっぴらごめんだったのだ。

私が母を殺さなかったのは、母への愛や倫理観からではない。ただただ、私が彼女を愛していなかった、それだけが理由だ。

だから私は、上の京都の心中未遂のように、純粋に相手への愛でもって相手を殺す殺人を、まぶしく思う。

あのような状況で、「義子は私の子。私が殺す」と言ってくれるような、私を命がけで愛してくれる母を、私も欲しかった。「生まれ変わったらまた母の子に生まれたい」と言わせてくれるような母を、私も欲しかった。

私が投票するならどちらに入れたか

たぶん、「殺さない」に入れたと思う。殺すことが究極の愛であると思っていながら「殺さない」に入れるのは、私に「まだそこまでの勇気が持てない」からだ。

私が「パートナー」として想定したのはオット。いろいろ想像すると、私はたぶんオットのためにそこまでの苦しみを背負って生きるほどの強靭な愛は持てないと思う。上に書いたような「本人の意思」の不確定性やなんかのことももちろん考えるだろうけれど、それよりも自分の都合…執着や弱さにさいなまれて、「殺すことができない」と思う。

仮に殺せたとしても、喪失と罪を抱えながら生きるのに耐えられなくて自殺するかもしれない。愛する者を愛でもって殺した者が死なずに生きるのは、逃げではない、覚悟とか責任なのだと思う。

私には子どもがいないけれど、もし私が子どもを持って、仮に上記の京都伏見のような状況に陥ったら、もしかすると「お前は私の子、私が殺す」と言えるかもしれない。

私は、まだまだ人の愛の真髄に到達していないヒヨッコである。

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