注意力と集中力はどう違うのか ―野生の馬と競馬の馬

この記事の所要時間: 514
※2015年8月30日夕方追記:
読者の方からご指摘があったので補足いたします。競馬の馬がつけているゴーグル状のものは「ブリンカー(遮眼革)」といい、全ての競走馬がつけているわけではなく、むしろつけていない馬のほうが多いそうです。私の知識と下調べの不足をお詫び申し上げます。当記事をお読みになるさいは、「競馬の馬」を「ブリンカーをつけている競馬の馬」と読み替えてください。
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「注意力が非常に散漫です」

20代後半だったか、運転免許をとろうと教習所に通っていた。最初に運転適性検査とかいう一種の性格検査みたいなものを受けるのだが、私はその結果に大きなショックを受けた。

「注意力が非常に散漫です」

結果説明の冒頭にこの言葉があり、運転適性を表す記号は非常に悪いものだった。

当時の私はまだ自分の発達障害を自覚していなかった。学校でのお勉強のようなことは得意だったし、「自分には集中力がある」と感じていたので、当然車の運転だって上手にできるほうに違いないと思っていた(※)。適性検査だって「素晴らしい適性です!」ぐらい書かれるだろうと思い込んでいた。

しかし、結果はまさかの「仕方ないからギリギリ運転させてやってもいいか」ぐらいの成績。別人のものと取り違えたか、何かの間違いじゃないかと思って、事務所に抗議しにいこうとしたぐらいだ。

でも実際に教習に入ってみると私は、いくら必死にやっても教官に怒られてしまう立派な劣等生になったのだった。この不全感と恐怖に既視感があるなと思い返してみると、小学校の体育の授業だった。

※いま思えば、車の運転方法の学習を学校でのお勉強と同等のものと考えること自体が間違っていた

「注意力と集中力は違いますよ」

このことを、当時たまに面談していた精神科医に愚痴った。「私いままで生きてきて初めて、注意力と集中力が違うものらしいって知ったんですよ」と。

そうしたら精神科医はこう言った。「そりゃ、注意力と集中力は違いますよ」

どうやら私は、生きるうえでとても重要なことを、知らないうちに取りこぼして生きてきているのではないか? というか、自分はだいたいにおいて人よりも優れた人間だと思ってきたけれど(今思えば本当にイヤなやつだった)、実はそれは自分でそう思っているだけで、私には本当はすごく大きなものが欠けていて、それが自分で見えていないのではないか? そんな不安に初めて直面した瞬間だった。

私にとって発達障害の自覚を夜明けとするなら、この時期はちょうど、夜明け前の最も闇の深い時間帯と薄明の時間帯との境目だったのだと思う。

注意力≒マルチフォーカス力、集中力≒シングルフォーカス力

私が自分の発達障害を自覚したのは30のときだった(確定診断は31か2のとき。このあたりの経緯はまた機会があれば書く)。そこで初めて、「シングルタスク」「過集中」「注意散漫」などの関連用語に、自分の問題として向き合うようになった。

私の何かアンバランスなところをひとことで表わしてくれるのは、どうやら「発達障害」というキーワードらしい。そして、私の自他ともに認める異常なまでの集中力は、「シングルタスク傾向」「過集中」とかいう言葉で表されるらしい。かつ、「過集中傾向」と「注意散漫傾向」は表裏一体のものらしい、じゃあ私が注意散漫なのは事実だし、理由があることなんだ… 

こんなふうに、数年前から心にひっかかっていたことが全てピーンと糸でつながった。

いまの頭で注意力と集中力を言い表すなら簡単だ。注意力はマルチフォーカス力、集中力はシングルフォーカス力。

「注意力」の象徴は野生の馬、「集中力」の象徴は競馬の馬

注意力のマルチフォーカスはたとえていうなら、野生の馬の視野だ。野生の馬の視野は危険を察知するために非常に広くなっており、見えないのは自分の頭の真後ろぐらいらしい。野生の馬は、正面を向いて走っていてもあらゆる危険に即応できるように、周囲の景色にもまんべんなく注意をはらっているのだ。

集中力のシングルフォーカスはたとえていうなら、競馬の馬の視野だ。競馬の馬の視野の大半はゴーグルで遮られ、正面のあたりしか見えないようになっている。こうすることで競馬の馬は、周囲に広く注意を向けることができないかわりに、ただ正面に向かって走ることだけに集中できるのだ。

上のたとえを見ればわかるように、マルチフォーカスとシングルフォーカスは基本、両立が難しい。何かひとつのことに集中することは、ほかのすべてへの注意を捨てることなのだ。こうして、「過集中傾向」と「注意散漫傾向」はほぼ表裏一体のものとなる。

私自身、冗談でなく本当に言われていた。「あんたは競馬の馬みたいだ」と、家族から。「猪突猛進のイノシシ」とも言われた。これはまさに的確な表現だったということになる。なんにしろ、私がいったん過集中モードに入ると、寝食もトイレも忘れ、声をかけられても気づかず、(家族の弁によれば)鬼気迫るオーラを発するのだった。

草原の入り口に立ちたい

競馬の馬である私は、野生の馬たちにあこがれる。競馬の馬としてときどきは、全速力でただ走り続けることに独特の興奮と快楽を感じることもある。競馬の馬冥利に尽きると思うこともある。しかし、前方を凝視して走ることしかできず、向こうの草原に咲く草花にゆったり目をやることもできないのは、基本的にはさびしいことだと思う。馬として生まれながら、馬としてほんとうは重要かもしれないことをたくさんとりこぼしたまま死ななければならないような気がするのだ。

野生の馬たちが、ときどきわれわれ競馬の馬にあこがれているらしいことは私も知っている。彼らにとって競馬の馬は、走るための才能、走るべき使命を与えられて生まれたかのように見えることがあるのだろう。

しかし、競馬の世界では、1位を勝ち取って世間からの賞賛とあこがれを受けることができるのは、限られた一頭だけだ。レースで勝てない馬は最終的にはそっと安楽死させられる。多くの競馬の馬はそんな、人の目にもあこがれにもさらされない、暗い厩(うまや)で一生を終えるのだ。

どうしたらこの想いがかなうのかわからないけれど、私はときどきでいいから、厩の出口、草原の入り口に立たせてもらいたいと思う。そうすれば、野生の馬たちには彼らの知らない厩の中のことを、厩の中の仲間たちには、眼前に広がる草原の草花のことを語って伝えられるだろうから。

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