「お友達と楽しく遊びましょう」に引っかかりまくる子どもだった

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「お友達と楽しく遊びましょう」の意味がひとつもわからなかった

幼稚園から小学校のころ、周囲の大人たちからよく言われた覚えがある。「お友達と楽しく遊びましょう」。私にはこの意味がひとつもわからなかった。あなたはどうだろうか?

どうも同じ当事者の中に、「自分にもわからなかった!」と同意してくれる人が多いように思うので、これはもしかすると発達障害児に表れがちな特徴のひとつなのかもしれない。

小学校中学年ぐらいだった当時、この表現への違和感は、自分の抽象的な思考の網にしつこく引っかかっていた。しかし、その感覚をはっきり定義するための語彙がまだ小さかったために、これはモヤッと心に残ったままだった。どういうことだったのかわかったのは、高校に入って評論文にあるような抽象的な語彙を身につけてからだった。(語彙の話についてはまた機会があったら書きたい)

以下、いまの語彙でもって、当時心に引っかかっていた点をひとつずつ列挙していきたい。

同年代 = お友達 ではない

まず引っかかったのは、「お友達」という表現だった。どうも大人たちは、呼びかける子どもから見て同年代の子どものことをもれなく「お友達」と呼んでいるようだった。

当時の自分が考えていたことはこんな感じだった。 「同年代だからって全員が友達なわけじゃないのに、勝手に友達ということにされても迷惑だなあ。そもそも私にはほとんど友達なんていないし。友達だとかいう言葉を使うなら、本人と相手の両方に、『あなたたちは友達どうしなの?』って確認してから使ってほしいなあ。なんだかイヤな感じだなあ」

いまの頭で分析するとこうだ。 誰かと誰かが友達であるかどうかは、その本人たちにしか決められない(概念の絶対性)。私は、こちらが子どもだからといってこの絶対性をやすやすと侵害された気がして、発言した大人から失礼をこうむったように感じたのだろう。

ゆえに本来ならば、彼らは少なくとも私に対しては「同じぐらいの歳の子と」と言ってくれるべきであった。

楽しいかどうかは本人にしか決められない

「楽しく遊ぶ」に引っかかったのも、いま思えば概念の絶対性の侵害の問題だ。誰かと遊んで楽しいかどうかを判断できるのは本人だけだ。原理的にいって、誰かが「楽しいかどうか」を、他者が外側から判断することはできない。他者が判断できるのは、その人の目から見た本人が「楽しそうであるかどうか」のみである。

彼らはだから、「(私があなたをよろしく指導したという満足感を得られるように)私の目から見て楽しそうに見えるように遊ぶ」という言い方をすべきだった。

意図しているところが命令であるなら命令形で言うべき

「遊びましょう」の「ましょう」である。「ましょう」は本来let’s、勧誘形だ。だから、この発言の意図するところが本当に勧誘であるなら、従わなくとも当時の私は叱責を受けなかったはず。しかし、実際には彼らの意図していたところは命令であった。「なんだか言ってる意味がわからないし命令じゃないみたいだから好きにしていよう」と思って好きにしていたら、なぜだか叱責されたのだった。

定型の人たち(の私と相性の悪い一部)というのは、なぜ口に出す言葉と意図との間にわざわざ齟齬を生じさせるのだろうか。私には理解できないし、その方法論をこちらに半強制してきたうえ、従わないと批判してくるところはつくづく腹立たしい。

mustをlet’sで言うというのは、せいぜい口当たりをマイルドにし、万一反発されたときの衝撃を和らげようという保険なのであろう。そんな保険をかけないと子どもに命令できないぐらいなら子どもの指導なんてしなけ(ry

まあ、仕事のときには私もモヤモヤしつつもぐっとこらえて定型のルールに従い、you mustとかcould youをlet’sの形で書いているのだから、私もずいぶんオトナになったものだ。

明言するリスクをとらずに人をコントロールしようとする人たちの話

命令をレッツで言う人だけでなく、終止形で言う、という若干ヒネッたタイプも存在する。

「○○しない!」「××する!」とか言う。あれはなんなのか。この世の理(ことわり)を私が宣言していますよ、だから私の言うことに従いなさい、という権威づけなのだろうか。いずれにしよ腹立たしい。

クラスが騒がしくていくら叫んでもどうにもならないとき、わざとじーっと教壇に立ったままむっつりと黙ってみせて、児童がひとり気づきふたり気づきして最終的にクラス全員が「あ、まずい」という感じでしーんとなるまで待っている教師がたまにいる。

あれも非常にうまいと感じつつ嫌でしかたなかったのだが、これもいまよく考えてみたら「あなたは私の言外の意図を読んで私のいうとおりにしなさい」「私は暴力的な方法で従わせたわけではないですよ?」という、定型的、または神経症的なコントロールのしかたのひとつだから気に食わなかったのだ、と気づいた。

そういえばこれは中学ぐらいのときだったが、母が夕飯のしたくどきにやたら咳払いしているから喉の調子でも悪いのかと思っていたら、兄から「お前なにやってんだ早く手伝いにいけ!」と言われて心底びっくりしたことがある。手伝ってほしいならそう言えばいいのに、言葉にせずに察させて従わせよう、察さなければ非難するというのはちょっと神経症的なのではないだろうか。

今になってよく考えてみて、兄に対して「あなたも気づいてるんなら私をつついてないで手伝いにいけばよかったのに」と思った(ここはジェンダー的な観点から)。

察することに関しての神経症的な要求については、また機会があれば別記事に書きたいと思っている。

こんなだから大人から嫌われる

私は上記のような命令を受けた時に、口が重いものだからはっきりと口答えするまでは(めったに)しないものの、ほかの子どものように「素直に疑うことなく従う」ということをしなかった。心の中の言語化できない不満が表情に漏れ出ていただろうし、そもそも自閉系の特性のひとつとして、表情があまり豊かでなかった。「ムスッと不満そうで素直じゃない。子どもらしくない。大人をバカにしているのか」と思う人間がいたのも自然だろう。子どもを指導する立場の人間がそういった感情に左右されるのが正しいことかどうかは別として。

最近ある知人から、「小学校ぐらいのときは、理由もなく先生や大人の言うことは絶対で、正しいんだと信じ込んでいた」と聞き、あまりの感覚の差に大きなカルチャーショックを受けた。「理由もなく」と言ってるんだから尋ねてもしょうがないだろうなと思いつつ一応「どうして」と尋ねてみたが、やはり明確な答えは返ってこなかった。小さかった当時から、自分がどうも周囲とはまったく違う世界に生きているらしいということはぼんやり自覚していたけれど、本当にこれほどまでに感覚が違ったのだなと感じ入ってしまった。

それでも生き抜いていこうぜ…

それでも私は、自分と感覚の違う人間が9割のこの世間で生き抜いていかねばならないのだ。だから、あちらの世界の人たちと接するときには私もあちらのルールに「とりあえずの方便として」必死に従う。疲れる。だからここでぐらい、自分の本心を本心のまま、語りやすい語り方で語りたい。相性のいい方には、ときどきおつきあいいただければ幸いである。

Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2016 Yoshiko Soraki
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